★谷川岳を訪れて
帰り道、10割ソバの看板にひかれ入ったソバ屋さん。その日に石臼でひいたソバ粉で、限定50食。谷川岳の水で入れたコーヒーのサービス付き。座敷にはコタツも置いてあった。店の前にソバの花が咲き、谷川岳の水が竹を通して流れていた。準備中だったので、15分くらい店の中で待つ間、そのコーヒーを飲みながらサービスの花豆の煮豆をいただき、とても得した気分。
龍頭の滝を見、新緑を眺め、山つつじとカタクリの花も見、ツアーと違い思いがけない出会いを楽しみました。土合の駅舎も入ってみると無人駅になっていました(とても立派な駅なのに)。私の兄がここから良く谷川岳に登っていたのに、あのにぎわいはどこへ行ったのか。
夫が一生に一度しか行けないかも知れないと言いながら530Kmを運転してくれて、夫に感謝。
私たちはつい出不精になりがちですが、誰かが誘ってくれたら遠慮しないで出かけてみませんか。ワクワクする出会いがありますよ。
★あるある私の失敗談―7
失敗をすると時には悔しくもあり、腹立たしくもあり、また時には自分自身にあきれて笑ってしまうこともあるでしょう。しかし私たち患者にとっては、病気の進行を否が応でも自覚させられるという、悲しくつらい面をもっていることも否めません。私自身の失敗を通して会員の皆さんの気持ちが少しでもほぐれてくれたなら、そしてこんな失敗をするのは自分だけではなかったのだと安心した気持ちになっていただけたのなら幸いです。さて、最終回は食べ物の失敗についていろいろと書いてみました。
一般的に私たちは食事をする時、先ず何を食べるのかよく見て、そして口にする前無意識に、その味や歯ごたえを過去の経験から想像し、それなりの準備をしていると思います。ある日の夕食時、器の中にある緑色っぽいものを見て、私は野菜の煮たものかサラダみたいなものがあると思い、それを口にしました。そしたら口にした瞬間それは強烈な酸っぱさで、飛び上がらんばかりに私を驚かせました。野菜の煮たものでもなく、サラダでもなく、何とノビルのぬただったのです。口にする前、淡白な味を想像していただけに驚きも大きかったのだと思います。ちょうど梅干を初めて口にした幼児のような感覚でしょうか。
同じような失敗は、ワサビ漬・カラシ漬でもやりました。何の疑いも無く口にしたものが、いきなり鼻までツーンとくる刺激的な感覚は、二度と忘れられません。もし最初から食べるものが、酸っぱいとか辛いとかわかっていたら、心の準備ができているのでそれほど驚くことはないでしょう。
似たようなことが、硬さの違う食べ物でもありました。ある日お昼の弁当を食べていた時です。幕の内弁当の中に、小指ほどのゴボウを斜め切りにした漬物か煮物に見えるものがありました。カリッと歯ごたえのある感触をイメージしながら口にしたのですが、ほとんど何の歯ごたえも無く、上の歯と下の歯がガチッと音がするほど、一瞬にして二つに噛み千切られてしまいました。「わっ、これはゴボウではない。ウインナーだ」。あまりの硬さの違いに拍子抜けしました。硬いものを想像していたので、私の口はそれに合わせて噛む力を強くしていたのです。硬いものを食べる時は強く、柔らかいものを食べる時は弱く、私たちは無意識のうちに噛む力をコントロールしているのです。
その他にも食べ物に関する失敗を上げたらきりがありません。蒸しパンの底についている紙を一緒に食べてしまったこと。魚の骨を皿の端のほうによけておいたのに、最後にその骨をまた口にして慌ててしまったこと。以前あぁるぴぃの投稿にもありましたが、絵皿の絵を食べ物と間違えて箸で取ろうとしても取れなかったこと、などなど。
最近また見えなくなってきたなと感じる今日この頃ですが、私も友達やランニング仲間と居酒屋などに行く時があります。一般的に居酒屋などは私たちRPの患者にとって照明が暗すぎます。そういう時には臆することなく周りの人にお願いして、食べ物を小皿にとってもらっています。そのほうが失敗することもないし、食べ物の説明もしてもらえます。
自分に出来ることと出来ないことをはっきりとさせて、出来ない部分は健常者に協力をお願いする。失敗を恐れて自分の行動範囲を狭くはしたくないです。これからもたくさんの失敗を積み重ねていくと思いますが、その人の考え方ひとつで明るくも暗くもなります。常に前向きな生き方をしたいものです。
☆風の音 花の香 陽の光(かぜのおと はなのか ひのひかり)B
千葉在住の会員K.Hさんの俳句集『谺』(こだま:H14.3月上梓)の中から、毎回季節に
合わせて3句位づつご紹介しています。
今号もK.Hさんの十七文字の世界を皆様とご一緒に旅して行くのは、S.I(千葉市在住、
夫MがRP)です。どうぞよろしく!
*臨月の牛に焚き継ぐ蚊遣草(りんげつの うしにたきつぐ かやりそう)
*籐椅子に父病む記憶ばかりかな(とういすに ちちやむきおく ばかりかな)
*小柄なる妣に低めの盆の馬(こがらなる ははにひくめの ぼんのうま)
《「妣」:ハハ・死んだ母・亡き母》
第1句:家牛への慈しみ溢れる一句。作者の温かい眼差しが感じられます。
第2・3句:関東のお盆はもう過ぎましたが、関西は旧盆でこれからですね。
お盆は亡くなった人々を思う季節、病みがちだったらしい父上と、小柄な母上の在りし日の姿が
偲ばれます。母上は活動的な方だったのでしょうか。茄子や胡瓜に割箸を刺して作る“盆の馬”。
お盆にはこの馬に乗って、亡くなった方々の魂が愛する家族の許へ帰って来るといいます。小柄
な母上が乗り易いように、盆の馬を低めに設(シツラ)える・・・作者の母上への思いが、じん
わり伝わってくる一句です。私の実父も病弱で、夏はいつも生家の二階の縁側の籐椅子に寄り掛
かっていたのを思い出しました。
たった十七文字の連なりから、慕わしい人の想い出が鮮やかに甦るなんて、ほんとうに不思議ですね。
それでは皆さま次回までごきげんよう。この欄へのお便り、K.Hさん共々お待ちしています。(S.I)