あぁるぴぃ千葉県支部だより25号


■活動報告■

★中村和子さんの講演会と感想
 9月6日に松戸市民劇場で中村和子さんに講演していただきました。参加者は25名(女性15名、男性10名)と盲導犬パピィでした。その内容をテープ起こしして掲載します。この講演をテープで聞きたい方は太田(043-270-7300)まで連絡ください。また、寄せられた感想文を掲載します。


★私らしく生きる −光を失ってもー

野田市 中村 和子
 こんにちは。本当に暑いですね。ようこそお越しくださいました。私がただいま御 紹介にあずかりました野田の中村和子と申します。ここにおりますのが盲導犬、名前 をパピィといいます。パピィは英語でかわいいとか子犬という意味があります。パ ピィは私のところに参りまして4ヶ月が過ぎました。もう4歳ですけれども4ヶ月な のです。普通、盲導犬には約2歳でなるのですけれども、この子は一度視覚に障害を 持たれる方のところに行きました。盲導犬として働きました。その方がガンで亡くな られました。NHKのテレビで盲導犬「クィール」をご覧になった方がいらっしゃい ますね。同じように亡くなったのです。別れは、その方もそしてパピィにとってどれ ほどの悲しみだったでしょう。それで盲導犬センターに戻りましてイベント犬として がんばって働いておりましたが、赤い糸で結ばれていたのでしょうか。4ヶ月前に私 のところに来て、私の目となって働いております。あとで盲導犬のこともお話いたし ますけれども、何かご質問がございましたら何なりとお答えしますので、おっしゃっ てください。
 昨年の12月9日の障害の日に心の輪を広げる体験作文コンクールというのがござ いました。これは内閣府主催のものです。一般の方の公募でしたので全国で9000 通ほど集まりました。この中で「情報の輪を広げて」という題で書かせていただきま した作文が、お蔭様で、最優秀賞の内閣総理大臣賞をいただきました。天皇皇后両陛 下にもお目にかかりました。実際にステージで何度も握手をしてくださいました。 「これからも視覚に障害を持つ皆さんのために働いてください」といった、お言葉も いただきました。美智子様からはコニーの間もない引退ということもございましたの で、コニーに対してたくさんのねぎらいのお言葉をいただきました。そんなうれしい、 そしてまた私が新たな第一歩を踏み出し始めたそんなきっかけの出来事でした。
 あの作文は、正直申し上げると、非常にものを書くことに関して行き詰まりを感じ ていた時に書いたものです。どういうことかというと、人間はあまりにも心に痛みが あると書けないものですね。とてもつらいことがあって、この脳天気な明るい私でも 書くことができないときがありました。そのときにもの書きの友人がこう言ったので すね。
 「中村さん、和子さん、淡々と書けばいい。飾り付けようなんて思わなくてもいい。 今までの中村さんの文章を読むと、どうしても美しい言葉が多すぎる。もっともっと 辛かっただろう。目が見えなくなることは辛かっただろう。そんなことも素直に書け ばいい。ただ淡々と書くように」と教えていただきました。
 そんなことがあったのは締め切りの10日前です。それでもうあっという間に原稿 を書き上げました。手直しするところもありましたでしょう。でも、そのままそれこ そ速達で投函したという次第でした。ですから、その作文に関して私が何か賞をいた だくなんてことは夢々思っていなかったのです。作文をお出ししましたけれど、そこ までは思っていませんでした。ただ、心の輪を広げる体験作文コンクールでは、県知 事賞を以前にいただいておりましたので、何らかの通知はあるかと思っておりました けれども、とても驚きました。最初は、
「中村さん」とお電話がかかってきまして
「中村さん、最優秀賞です」といわれたのです。
「そうですか、ありがとうございます」と、それで終わってしまったのですね。最優 秀賞ですって。誰かに行ってもらおう。私は仕事があって忙しいから、誰かに行って もらおうと思いました。そのうち最優秀賞は最優秀賞でも内閣総理大臣賞だというわ けですね。でもいくら内閣総理大臣賞でも小泉さんはあのとおりお忙しい方、どなた かがみえて表彰状をぽっとお渡しになって、お帰りになるのだわと思っておりました。 ところがところがです。またも電話がございまして、今度は
「天皇皇后両陛下がご臨席なさいます」ということで、話はまたずいぶん変わってき ました。何度も何度も打ち合わせをして、そしてその授賞式に臨んだわけです。
 そのときのいろいろな思いが込み上げてきました。自分自身が網膜色素変性症とい う難病のために、完全に失明してしまったこと。ここにいらっしゃる方、皆さんも色 変だと思いますが、私は光覚なしです。まったく光を感じません。眼科の先生が
「中村さん、とっても視神経はきれいなのだけれど、もう網膜は手がつけられない。 光覚なしですね」といわれたときに、私は思わず
「先生、大丈夫です。私の心の目はとっても明るくって、大丈夫です」と申し上げ て、先生の方が驚かれたぐらいです。朝起きても、昼も夜も、どんなにお天気が良 くっても、もう私の目は光を感じなくなりました。ところがですね、だんだんだんだ ん見えなくなっていったときには、とっても書くことに対してためらいがあったので す。見えないということを書くことはとっても難しいなあと思っていました。見えな いということを書くときにどんなふうに書けば理解してもらえるだろう、そんな思い がありました。でも完全に光を失ったとき、目の前に出した指先が完全に見えなくな って、朝目が覚めても光を感じなくなったとき、小鳥のさえずりや風のささやきや、 そんなことにしか思いが行かなくなったとき、素直に「私は見えません」と言えるよ うになりました。
 でもね、光を失う寸前、私の眼球が動き始めたのです。ものを探して見たいという 神経が働いて動き始めました。立って歩くことができなくなったのです。眼球震とう の非常にひどい状態になりました。それで東邦大学病院の眼科に入院いたしました。 どんなに調べてもわからないのです。そのとき最終的に眼科の医師がおっしゃったこ とは、
「中村さん、もう見たいという感覚をすべて捨ててください。そうすれば眼球が動か ないでしょう」。そのとおりでした。失われていくということは、本当に壮絶な痛み なのですよね。やっぱり見たいのですよね。見えていたのですものね。やっぱり見た いのです。でも見たいという感覚を捨てました。娘が大学の卒業式のとき、すてきな 袴をはきました。おはなはんみたいなリボンをつけて。そのときに袴の裾に手毬が刺 繍してあったのです。私は見ることができなくて目を閉じました。見たいと思うとき に目を閉じる、私が見たいという感覚をすべてシャットアウトすることによって、眼 球が動かなくなりました。そして今は目の状態は落ち着き、眼底の痛みもありません し、穏やかな日々を送っております。
 失明する過程において、どんなときも自分が自分らしくありたいと願い続けました。 たとえ身体の中のこんな小さな部分、目という機能を失って、それはそれなりにどう しようもない苦しみがあったとしても、どんななかでも私が私らしく生きたい、自分 を見失いたくないと、そんな思いで生きてきました。
 書かせていただいた「情報の輪を広げて」というのは、パソコンをワークアイ船橋、 今は社会福祉法人「あかね」といいますね。そこに2年間ほど通いまして、インスト ラクターになって、皆さんに指導させていただいた、そんなことを書きました。目が 不自由な友人たちと共に私が学んだことを分かち合いたいと願って、指導させていた だいたわけです。そのときに気が付きました。人はパソコンの指導だけではなくて、 本当は生きていく力も分かち合っているのだなと思いました。いろいろな方にパソコ ンを指導させていただきましたけれども、よく考えてみますと、私自身がみなさんか らたくさんの力や喜びやたくさんのものをいただいているような、そんな気がいたし ます。先ほども会場に入ります前に、私の昔の生徒さんが声を掛けてくださいました。 なんかすごくうれしいですね。
 そんなことがあって受賞いたしましてから、今年の1月に入りまして、千葉県では 千葉県方式、健康福祉千葉方式といいますが、これは地域福祉支援計画策定作業部会 の委員になりました。21世紀健康福祉推進戦略検討委員会という長い漢字がいっぱ い並んでいる、そういった策定部会です。どういうことかと言いますと、今まで福祉 というのは縦割りでしたね。いろいろなこと、例えば税金のことはそちらの方の課に 行かなければいけませんし、介護保険のことはこちらの課の方に行かなければいけな いし、といった形ですべてが縦割りでした。しかし、千葉方式というのは、縦割りの 施策はもちろん必要な場合もございますが、横断的にすべてのものをひっくるめて福 祉を考えようというすばらしい構想です。そのためにパピィと県庁まで月に何回も出 かけます。タウンミーティングでみなさんにもお目にかかったかと思いますが、今第 一次素案、第二次素案ができあがってきています。そこで視覚障害者、当事者として 声を出しております。皆さん、こんなことを要望したいこんなふうにしてほしいとい うことがございましたら、私、喜んで窓口になりますので、県でものをいうことがで きますので、個人的にも団体としても、おっしゃっていただければと思います。そう した健康福祉千葉方式、地域福祉支援計画の委員としていま仕事をしております。地 域福祉計画というのが市町村で行われる福祉の施策ですね。市町村で行われる福祉の 施策のもう一つ原案といいますか、千葉県ではこのような方向でしてほしいという素 案を作るのが仕事でございます。
 先日、小出さんが毎日新聞の記事をメーリングリストに出してくださいました。と てもうれしく思いました。野田市では画期的なことです。もうワンストップで、障害 者、高齢者、児童が窓口に行ったときに相談業務がなされます。いま議会で検討し て、話し合われていますのが、ほとんど本決まりです。99.9%本決まりです。そ こで実際に窓口で相談をいたしますが、そのときに市役所だけではなくて、保健所と か警察署、消防署とか、あらゆるものがネットワーク化します。相談に行くといろん な事柄について、私たちが市役所の中を動き回ったり、保健所に行ったりするのでは なくて、市役所の側の方が、保健所の方が出向いてくださいます。そして、相談セン ターの主管、専門に担当する方ももうすでに決まりました。そんな仕方で、県で千葉 県方式を推進するために、地域福祉支援計画を推し進めるために、努力を払ってまい りましたけれども、野田市でも動き始めました。
 野田市では視覚障害者協会というのが6月12日に誕生したのです。26日には市 長さんをはじめ多くの方々が設立記念式に参加してくださいました。そして私も市町 村の障害者基本計画推進委員会の委員にもなりました。ですからいろいろな多方面に わたって、福祉の声を、私たちが望む福祉の声を出していくことができます。今まで 私たちはこうなりましたというのを受ける側でした。受動的だったわけですね。でも これからは能動的に私たちの方からこうあってほしいという面で、働きかけが必要に なってきます。
 ところが福祉といいましても、視覚障害者だけが障害をもっているわけではありま せん。それこそ、知的障害、精神障害、身体障害、なかでも車椅子とか肢体障害、い ろいろな重複障害もあります。そして、母子家庭の方、父子家庭の方、いろいろな高 齢者を抱える方がおりますので、福祉全体を、陶冶して福祉が良い方向に向かってい かなければなりませんので、視覚障害者のことだけをピックアップして素案に入れる ことはできませんけれども、視覚障害者当事者でなければわからない事柄がございま す。そういった面についても声を出してまいりますので、皆さんのお声を集約したも のを持っていきたいと思っておりますので、いつでも私の方に声を掛けていただけれ ばと思います。
 「まぁ、たくさん仕事をしていますね」といわれるのですね。マッサージ治療院の 仕事の傍ら、パソコンのインストラクターと県の福祉の仕事をしています。あと身体 障害者の県知事委嘱の相談員の仕事もしています。それから視覚障害者協会の代表も させていただいています。そしていま心のバリアーフリーを提唱して、小学校、中学 校、各種団体にいつでも出向いて、障害者も、健常者(健常者という言葉は好きじゃ ないのですけれど)、障害を持つ者も持たない者も、共に生きることのできる地域社 会を目指して、語りかけています。
 でも、私がもっとも好きなのは、ものを書くことなのですね。ですから、これから 先も書いていきたいと思いますし、定期的に刊行物に、月刊「とも」とか他の出版物 もありますけれども、私のページがございましていつも書いております。コニーがい たときには、前の盲導犬ですね。「コニーとともに」でしたが、今はパピィになりま したので、今度は「パピィとともに」というテーマで毎月1回ずついろいろな情報を 載せております。今日こうしてJRPSの皆さんにお話させていただいたことも、書 きたいなあと思っております。私の友人などが良く笑うのですけれども、一緒に歩い たりお食事したりしますと、
「いま話したこと、もしかすると書いてしまう?」と訊かれます。なんでもかんでも 書いてしまうものですから。でも個人名とか、個人的なことについて関係がある原稿 の場合には、必ずその方に私が書いたものをお見せしまして、了解を取ってから雑誌 等の紙面にお載せするようになっておりますので、どうぞご安心ください。
 私は14歳のときに東北大学病院の医学部眼科で網膜色素変性症という難病の宣告 を受けました。やっぱりという絶望感とどうしてというあえぐような思いがあったこ とを今でもはっきりと覚えています。やっぱりというのは、小さい頃から暗くなると 見えにくくなってきていたのです。小学校のときには、合唱クラブのメンバーに選ば れておりましたから、コンクールが近くなると毎日毎日練習するのですね。家から学 校までは一里、4キロの道のりがありました。急いでいそいで走って帰ってきても暗 くなってしまうのです。川にかかった橋を渡らなければ家まで行けません。どうして も橋を探すことができなくて、屈み込んで動けなくなってしまったことがありまし た。近所の方が連れて行ってくれて、家まで送ってくれました。そのとき、自分自身 の目の異常はどうにもならないほど身近なものになっていることを感じました。3歳 ぐらいのときだったのです。父の背中で、父に「あれが天の川だよ」といわれたけれ ど、星が見えなかった。「きれいだねぇ」といったけれど見えなかった。母にそのこ とを話すと「誰だって夜暗いときは見えないのだよ」といわれて「そんなものか なぁ」と思っていた。でもやっぱり私の目は異常があったのです。だって、学校に 行って、お天気のいいときには黒板の字がはっきり見えるのに、暗くなると、曇った 日なんか、雨が降った日なんか、本当に見えないのです。ですから網膜色素変性症と いう難病を宣告されたときに、やっぱりそうだったのだと思いました。そして「どう して」とあえぐような思いがありました。中学3年で、これから自分たちの、みなさ んも覚えがありますよね、これから自分の人生を切り開こうというときですよね。私 はお医者さんになりたかった。なりたいものが三つありました。お医者さんと学校の 先生と作家になりたかったのです。医師になりたかったというのは身内にそういう者 がおりまして、いつもそんな目標を持っていましたから、なりたいと思っていまし た。でも網膜色素変性症という病名を告げられたときには、すべてが失われたと思い ました。縁側に座って、農家ですから縁側があるのですね。縁側に座って、ずうっと 遠くを見渡すと、緑の田畑がずうっと広がっていて、目にとてもやさしく映りまし た。そのうち空が黒雲に覆われたかと思うと、ザーッとスコールのような雨が降りま した。にわか雨ですね。そのときに地面を見ると、大きな雨粒が地面を穿り返してい るのです。すごい勢いで降っているのですね。そこまでも良く見えていたのです。そ のうち雷が鳴って、しばらく眺めていると雨がサーッと上がりました。緑は水に潤っ てとてもやさしい色になりました。大きな虹がかかりました。そう、私の詩集の中に もありますが、私は忘れない、この日のことを決して忘れないと思いました。自分が 失明するという病気のために、おののいて打ち震える自分と、その自分を遠くから見 つめて、何とかなる、必ず人は生きるすべがあるものだ、どこかに必ず、どんなに苦 しい状況にあったとしても、自分らしく生きるすべはあるに違いない、そんな思いが いたしました。
 そしてやはり私の目の病気は、少しずつ少しずつ進んでいったのですね。でも、一 時は学校を出ましてから、病院の理学療法士として、リハビリの仕事をいたしまし た。まだ明るいときにはカルテも良く見えていましたし、白い杖をつかなくても歩け る状態だったのです。そこで病院勤務を通して、命の尊さともろさというものを非常 に感じました。人が死を迎える、それは当たり前のことです。でも当たり前じゃなく して、病院ではそういったことが日常起きているのです。小学4年生の男の子が運ば れてきました。救急車で。胸をトラックに轢かれているのです。もう瞳孔も散大し、 息もありません。そのとき母親はその子を抱きかかえて、「先生、この子は生きてい る。助けてほしい。生きている」と叫ぶのです。バイクの二人乗りで若い青年二人 が、激突し即死です。そして交通事故で大学生が、私の勤めていた病院の近くに茨城 大学がありましたので、事故で繰り返し繰り返し発作に襲われて、症状が悪くなって いきます。そういった病院勤務を通して、私が感じたのは、人は生きているのではな くて、生かされているのだということでした。人は自分自身で生きているように思え ても、生かされている、生かされているのであれば、精一杯生きよう。自分自身の目 の障害がだんだんひどくなってきたとしても、失明するその過程にあったとしても、 自分がおかれている状況で一生懸命生きようと思いました。生きつづけたいと願いな がら、人々はたくさん亡くなっていくのです。家族のあの叫ぶような声、慟哭、いま でも耳に残っています。
 そんな病院勤務のときに、今の夫との出会いがありました。私は結婚するつもりは ありませんでした。自分の病名のことをしっかりと受け止めていましたので、生涯ひ とりでいるつもりでした。ただ、いまの主人が、いまの主人って前の主人はいません ですけれども(笑い)、私の目の病気のことをすべてわかった上で、プロポーズして くださったものですから。お蔭様で結婚いたしました。そして、ひとり娘を出産する ときがたいへんでした。病院では眼科の先生と産婦人科の先生とが、とても熱心な先 生でした。
「中村さん、出産をあきらめなさい」と何度もいわれました。
「いま病気の状態は止まっているかもしれないけれども、出産を契機に本当に見えな くなる。中村さんが首を吊るときに足を引っ張るようなことはできない。出産さえし なければ、しばらくもつに違いない」といわれました。もう一ついわれて辛かったの は、
「あなたの子供さんにもあなたと同じ病気が遺伝するかもしれないのですよ。それで も産むつもりですか」ということです。そのとき私は
「先生、子供を産ませてください。もしお腹の子供が私と同じように目の病気を持っ て産まれてきたのであれば、一緒に悩み苦しみ、ともに生きていくことができるに違 いない。このお腹に息づいた命を私は奪うことができないのです」といいました。そ れは先ほどもお話しましたように、病院勤務を通して、生きたいと願いながら、たく さんの人々が亡くなっていっている姿を見ているからです。叫びを聞いているので す。お腹に宿った命を、掻破することなどどうしてできるでしょうか。できなかった のです。そして一人娘を出産しました。眼科の先生も、産婦人科の先生も、私がどん なに言われても、決意が固いことを知ってくださって、協力的になってくださって、 一人の娘を産みました。やっぱりねぇ、眼科の先生のおっしゃったことは本当でし た。日増しに見えなくなりました。まるでレースのカーテンを1枚ずつ引いていくか のように、見えなくなりました。
 娘が産まれて6ヶ月目のときのことです。みなさん、私の身の上話をしています。 眠くなった方はうっとりなさってください。私の声はやさしい声でしょう。でもね、 このときのことはみなさんにも知っていただきたいと思いました。私は白い杖をなか なかつくことができなかったのです。だって白い杖は、みなさんに私は視覚障害者で すということをお知らせすることにもなりますが、自分自身にも「お前は視覚障害者 だ」ということを言い聞かせることにもなってしまうからです。白い杖をつけません でした。ところが、その日はまだ6ヶ月になった娘とともに、電車に乗って出かけな ければなりませんでした。娘はピンクの熊さんの帽子をかぶってママコートを着て、 私ははじめて白い杖をつきました。まだ見えていると思っていました。まだ見えてい たのです。その辺の危ういところをみなさんは良く分かりますよね。見えているのだ けれども見えていないという難しいところです。踏切を渡って電車の改札まで行かな ければなりません。カーン、カーン、カーン、カーンと音がしました。踏み切りは もっと先だなと思って、白い杖をついたまま歩き出してしまったのです。ところがで す。ガーとものすごい音が近づいてきました。身体が揺れるような振動です。私は線 路の真中に立っていたのです。もうだめだと思いました。そのとき皆さんだったら、 線路の向こうまで走ればいいじゃないの、戻ればいいじゃないのと思われるかもしれ ない。でももう音が近づいて来たときに、白い杖を持ちながら全身が振るえて一歩 だって動けないのです。そして目から、あれは涙というものではないでしょう、水分 が地面に、身体中の水分が地面に流れたのです。もう死ぬのだと思いました。振動 は、音は近づいてきます。この娘とともに死ぬのだと思いました。そのときです。遮 断機のいちばん近くにいた40代くらいの主婦の方でした。私の動きに気が付いて、 走って来てくださって、危険もかえりみず、私のママコートの袖を引っ張って、思い 切り遮断機のところまで連れて来てくださいました。そのとき身体が震えて、その方 に「ありがとうございます」も言えなかった。無我夢中で遮断機のところに戻ったか 戻らないかのうちに、電車がゴーと愛宕駅に入ってきたのです。そして遮断機が上が りました。しばらく動けなくって、振るえて。80代くらいのおばあちゃんが近づい てきて、「かわいい赤ちゃんね」といわれて、はっと我に返って、「あぁ、白い杖が 私の命を、いいえ、私だけではなくて、失明することを覚悟で産んだ娘の命を救って くれた」と思いました。でも、その私を助けてくださったその方に「ありがとうござ います」も言えなかった。私は機会があるときにいつも頭を下げております。「あの とき助けてくださって、ありがとうございます」と。見も知らぬ、どなたかわかりま せん。でも本当に心から感謝しております。
 あのとき背中にいた娘はいま看護婦になりました。病気の方々を一生懸命世話して おります。そして、あのとき白い杖をはじめて持った私は、いま盲導犬パピィと一緒 に、このようにいろいろな面で、福祉の向上を願って、視覚障害者の福祉の向上を 願って、働かさせていただいております。本当に感謝しております。それから決して 白い杖を離さなくなりました。左手には白い杖を持ち、右手で娘の手を握って歩きま した。娘の肩にはかわいい鈴が、歩くたびにリン、リン、リン、リンと音がします。 いまは盲導犬パピィの首にもかわいい鈴が、歩くたびにリン、リン、リン、リンと音 がします。
 そんな娘が小学校の1年に入りました。そのときあれほど私の目の病気をわかって 結婚してくれたいまの主人が、慢性的な病気になりました。1年に3ヶ月から6ヶ月 の入院が10年間ほど続きました。毎年、毎年、半年は入院しているのです。そうい う状態が続きました。娘と二人、母子家庭で、夫の留守を守りました。でも不思議で すよね。人間って、生きられるのですよね。自分自身の目の病気が進むことではなく て、夫が病気のこと、娘のこと、一生懸命母親としてがんばっていきたいと思ってい ました。だって、私が毎日泣いていたら、娘はどれほど辛い思いをするでしょう。こ んなことがあったのです。私が近所の方に「中村さんはどうして目が見えなくなった の?」って聞かれたのですね。そのときに「こういう目の病気があって、子供を出産 して病気が進んで、もう見えなくなったのです」とお話をしたのです。そうしたらそ のことを娘が聞いてきたのですね。そんなことを言ってしまう方も言ってしまう方な のだけれど、娘が聞いてきました。家に帰ってくるなりものすごく泣いたのです。
「お母さん、私が生まれなかったら、お母さんは目が見えていたのだよね。私が生ま れなかったら、お母さんはいつもぶっつかって怪我をしたり、やけどをしたり、包丁 で手を切ったりしなくていいのだよね」。そう娘が言いました。そのときね、家の娘 「みか」というのだけれど、「みかさんが生まれてきたおかげで、お母さんはがん ばって生きていけるのよ。目が見えなくったって、お母さんはあなたがいるから幸せ よ。お父さんがいてくれて、あなたがいてくれて、お母さんがいて、とっても幸せな のよ。もう泣かないでね」といいました。でも、「泣かないでね」と言った私の目に もいっぱい涙があって。それから娘の前で自分が、目が見えなくなってきているこ と、目が見えないことに対する愚痴は言うまいと思いました。いつでも明るい元気な お母さんでいたいと思って。それで娘が学校にいっている間に泣いて、帰ってきたら 泣くのをやめました。台所に立って包丁や野菜を洗ったりしながら「見えているとき はこんな思いをしなかったのに」と思いながら、ひとりでいると涙が流れて。「お母 さん」と呼ばれて振り返るときは、にっこりと笑うようにしました。いつのまにか笑 うことが習慣になりましたら、なんか笑顔の方が似合う私になりました。でも、娘が 小学校の1年のときからずうっとそうやって、主人が半年余りの入院生活だったので す。
 それは娘が小学校の6年生のときでした。いつも待ち合わせて夕飯の買い物とかに 行くのです。向こうから娘が「お母さーん」と走ってきたのです。でもそのとき私に は、娘の姿が見えなかった。まだ明るいとか暗いとか、影が分かっていたのです。で もそのときにもう娘の姿が見えなかったのです。娘は6年生でお下げ髪をしていて、 私にそっくりでとってもかわいいのです。こういっては何ですけど(笑い)。そのか わいい愛娘の顔が見えなかったのです。それでそのときから決意しました。私は娘の 一生を台無しにしてはならない。娘の手を引いて、いえ娘に手を引かれて、なんとも 娘が私のことをよく助けてくれていましたので、甘えすぎてはいけない。娘にも娘の 将来があるに違いない。結婚もあるだろう、仕事もあるだろう、娘の一生がある。母 親として、母親の生き方を考えなければならないと思いました。それから盲導犬が欲 しいと思ったのです。盲導犬を申し込みまして、3年ほど待ちました。その当時はい まみたいに身体障害者補助犬法なんてありませんから、盲導犬を持ちましても非常に 大変なことでした。タクシーに乗ろうと思えば乗れない、電車に乗ろうと思えば回り の方のご理解がない、食事しようと思えば「外につないでください」、旅行に行けば 旅館でバスの中に、車の中に待たせてくださいという、そんな時代でした。それでも 盲導犬とともに生きたいと願ったのです。
 私がこの子の前の盲導犬、コニーのことに関して非常に強いものを持っております のは、コニーは私が完全に光を失った瞬間を知っている犬なのです。人間はぱっと光 を失うものではないのです。明るい暗い、朝起きて明るい、夕方暗くなってきた、と 感じるだけでもほっとするものなのです。朝目が覚めて窓の方を見て、ああ明るい、 朝が来た、そう思えるだけでほっとするものなのですけれども、その光が感じなく なった。そしてそのときに私はもうすでに家族の前で泣かなくなっていました。泣い てしまうと家族が悲しむから。悲しむのは、悲しみは私ひとりだけでいいと思いまし た。泣いてしまうと家族がとっても悲しむのです。だから家族の前で泣けなくて、前 の盲導犬コニーのハーネスを握りながら、泣きました。でもね、泣くっていっても、 涙を流してわあわあと泣くのは泣くことではないのです。声を出して涙を流して泣け るのは、皆さんも分かりますよね、まだ悲しみを傍観しているみたいなものですね。 本当の意味での悲しみは、涙も出ないほど心の中が傷だらけで、血があふれるほどの 悲しみですね。そんな悲しみを持ちました。でも先ほども申し上げましたけれども、 見えなくなることに対しての悲しみはもうそこで終わってしまったのです。見えなく なる途中の方が辛かった。いまは見えないということに対して、正直申し上げて、不 便ですけど、少しも辛くはありません。これが私だからです。目が見えない、光も感 じない、この個性を持つ私が、私だからです。いまはそのことについて、目が見えな いことに関して悲しんでいるよりも、この中で自分自身をどんなふうに生かせるだろ うか。この中で自分という人間が、自分らしく、私らしく、生きられるだろうか。こ の中で、いままで目が見えなくなってきた、いきさつ、経緯を思い返すときに、福祉 の向上の面で何か力になれるのではないだろうか。そんなことを思い始めてきまし た。ですから、いま確かに正直申し上げまして、身体中の水分がなくなるほどのとき もございましたけれど、今はとっても笑顔が似合う中村和子になりました。
 盲導犬のことを少しお話しましょうね。盲導犬のことは、この頃よくテレビとか出 版物に出ていますので、みなさんもお話を聞いていらっしゃると思います。盲導犬は いま日本の中で870頭ほどいます。千葉県は25頭ほどです。少し前後するので す。というのは、生き物ですから亡くなってしまう場合、死んでしまう場合があった り、あと盲導犬ユーザー、視覚障害者の方がご病気で動けなくなったり、盲導犬と歩 行できなくなったりする場合がありますから、多少の前後することがあります。盲導 犬というのは、視覚障害者を安全かつ速やかに誘導するために特別に訓練された犬で あり、心のパートナーになりうる犬だといわれています。種類はラブラドール・レト リーバーです。どうしてラブラドール・レトリーバーが多いかといいますと、カナダ のラブラドール半島で、海鳥を追う狩猟犬として働いていました。盲導犬の昔々その 昔はね。非常に優秀な犬でした。海鳥を追う狩猟犬ですから、ダーンと銃で鳥を追い 落としますと、泳いでいってくわえて、帰ってくるというのが仕事だったわけです ね。
 ではみなさん、ちょっとお昼のひとときでうっとりしている方もいらっしゃるの で、ここで皆さんに質問しますね。盲導犬はメスが多いでしょうか、オスが多いで しょうか。(会場から「メス」の声)。そうなのです。そうなのです。オスという方 はいませんか。いないですよね。これからの日本をしょって立つのもメスですよ。メ スが優秀なのです。人間社会においては女性なくして世の中が動かないのですから。 女性の皆さん、自信を持ってください。視覚障害者を安全かつ速やかに誘導するのは メスです。ほとんどの介助犬も聴導犬もメスです。何故でしょうか。従順に服すると いう資質を持っているために、盲導犬はメスなのです。まれにオスもおりますので、 男性の方もがっかりなさらないでください。でもほとんどが女性です。これから質問 します。三ついいます。盲導犬の犬種は次の三つのうちなんでしょうか。1、ゴール デン・レトリーバー、2、コリー犬、3、ラブラドール・レトリーバー。おっしゃっ てください。(会場から「ラブラドール・レトリーバー」の声)。何番ですか。(3 番)。皆さん目が覚めていますね。3番です。いまはほとんどがそうです。他にも ゴールデンが入っていたりとか、警察犬のような、ああいった犬が入っていたりしま すけれど、ほとんどがラブラドール・レトリーバーなのです。
 私の足元にいるパピィもとってもかわいいのです。みんなにかわいいね、賢いね、 といわれます。そうしますとなんか私が言われているような気がして、(録音中断) というように盲導犬というのは、仕事を忠実にいたしますけれども、心を和ませてく れる、とっても嬉しいことですよね。尻尾を振りながら頑張って歩いています。盲導 犬への命令は英語です。盲導犬がすべてを知っているのではありません。それこそ太 田さんのお家にも、藤井さんのお家にも、小笠原さんのお家にも、清水さんのお家に も盲導犬が知っていて行くわけではないのです。私の頭の中にマップ、地図を描きま して、コーナー、曲がり角で止まりますから、ライト、レフト、ストレートとすべて 英語で命令を行いながら、ともに歩くことができるのです。住宅街、商店街、電車、 バスの乗り降り、そして障害物コースと、盲導犬の訓練は車の免許を取るように、段 階を追ってなされます。初めて盲導犬を持つ方は、ほぼ4週間の共同訓練がありま す。二頭目の方は2週間。こうして盲導犬との共同訓練が終了するわけです。いまは 盲導犬とともに野田の地で動いているわけです。この間、盲導犬センターの所長さん が見えまして、この子は栃木盲導犬センターなのですが、私の1週間の予定を所長さ んに話ました。月曜日は県庁で、火曜日は点字講習会で、水曜日は講演会で、木曜日 は・・・、というふうに言いましてね。その他に私はマッサージ治療院「中村」と いって、治療院を開院しているのです。これは完全予約制、会員制のようなもので す。予約制で仕事しているのです。バリバリと働いて、いま働き盛りなのです。この か細い身体で。働いているのです。何故かっていうと、主人が病気ですので。ただ ね、病気ですけど、有能な事務長さんなの。私が休むことのないスケジュールがピ タッと入っていて、マネージメントをするのです。ですからいつ寝ているのだといわ れます。眠りながら仕事をしているのではないかというような生活をしておりますけ れども、生きがいを持って働いております。いま何を申し上げたかったかというと、 1週間のスケジュールを所長さんにお話しましたら、「パピィが中村さんのところで よかった。盲導犬に成りたての犬が中村さんのところに行っていたら、ストレスに なってしまって具合悪くなるところだった」といわれました。1週間に1回ほど県庁 に行きます。それから講演の仕事、視覚障害者協会の点字講習会とか、この間は浴衣 の着付けとかありましたし、音楽会なんかの司会もいたします。知的障害者の、ハン ディキャップを持つ青年たちの「つくしんぼ」というコーヒーハウスがあります。そ の運営委員もしています。朗読の世界の司会とか、あとコンサートの司会なんかもさ せていただきます。そういった意味で非常にスケジュールが過密なものですから、 「パピィでよかった」といわれております。今日もパピィと一緒にみなさんとお目に かかって、こうしてお話させていただいているわけですけれども、盲導犬のことはあ とでまたご質問してくださいね。
 もう少しお話を先に進めます。さきほど、小中学校の総合学習で、心のバリアーフ リーを提唱して、講演活動をしていますということをお話しましたね。その他にボラ ンティアさんの養成講座なんかでもちょっと話させていただくのですね。視覚障害者 に出会ったときにどうすることができるとか、実際の具体的なことについてお話させ ていただいているのです。そのときに私はいつも心の方程式のことについてお話をい たします。心の方程式。ここにいらっしゃる方で、数学は苦手だよとおっしゃる方も いらっしゃると思います。方程式といわれるとますます頭が痛いとかって。でも心の 方程式です。どんな方程式かというと、みなさんも覚えて帰られて何かのときにお使 いくださいませ。
「やさしさ+やさしさ=勇気」という心の方程式を子供さんたちにお話しておりま す。皆さんの中にやさしい気持ちがありますでしょう。でもやさしい気持ちだけで終 わってしまうならば、お声かけすることができないでしょう。でももう一つのやさし さを培ってくださいということを申し上げます。どういうことかっていいますと、そ こに杖をついている人、盲導犬、目が不自由な人、車椅子の人、耳が不自由な人がい たとします。そのときに「困っているわ」と思うだけではなくて、そこにいる方が自 分のお父さん、お兄さん、妹、弟、叔母さん、お姉さん、そんなふうに自分の大好き な人、自分の愛している人が、そこで困っているのだと思ってくださいと申し上げま す。例えば、高校生、大学生ぐらいになると、本当に愛している人が、自分の大好き な人がそこで困っている。そのときにもう一つの大きなやさしさをもって、勇気を もって「何かお手伝いすることはありませんか」とお声かけしてください、と申し上 げます。そうした「やさしさ+やさしさ=勇気」ということについてお話いたしてお ります。みなさんもきっと小中学校などの総合学習なんかでもお声がかかって行かれ ることもおありかと思います。そんなときにぜひどこかで聞いた「やさしさ+やさし さ=勇気」ということをお話くださると嬉しく思います。小学校の四、五年生になる と、点字を学ぶ機会があります。子供さんたちに点字そのものだけをお教えするので はなくて、点字を使わなければならない目の見えない人のことについてもお話するよ うにしております。野田市では「市民ふれあいハート祭り」といいまして、福祉フェ スティバルの中でそういった点字とか音声パソコンの実際の扱い方、そしてフォーラ ムなんかも開きます。あっちこっちで時計が鳴っているようですので、そろそろもう 疲れてきたなあという方もいらっしゃるのだと思います。確かにそうです。私もよく 分かります。ここで皆さんのご質問を少しお聞きして、またお時間まで私のお話を続 けさせていただきたいと思います。ご質問くださるときに、どうぞ、私たちは同じ視 覚障害の者ですので、お名前をおっしゃってくださって、「こんなことはどうなので すか」と今までのお話の中で質問してくださればと思います。いまどこでも視覚障害 者が会議に加わるときには、必ず一般の方にもお名前をおっしゃっていただくように お願いしております。ちょっと中休みというと何ですけれども、ここまでのお話の中 でこんなことを質問してみたいなということがございましたら、承ることができれば と思います。

Q(鎌ヶ谷のMSさん):盲導犬の背中のリュックの中には何が入っているのです か。
A:なんて率直な質問ですこと。このリュックの中には百万円、じゃあないのです (笑い)。この子のお絞りとか、おうちに上がらせていただくときがありますので。 小さなタオルとか、ナイロンの袋とか、ティッシュとか、あとお水を飲むための器が あるのですね、折りたたむことができるのがあるのです。自分のものは自分で持つの ですね。そのときもパピィも女性ですから、美しくかわいくないといけないので、か わいいリュックを背負っております。そういうものが入っております。他の盲導犬の 場合にどういうものが入っているかは分かりませんが、この子の場合はそういったも のが入っております。出かけるときにハンドバックなどを持ちますでしょう。そうい うときに「まあいいわ。今日はパピィのリュックサックの中に入れちゃおう」と、私 のハンカチなどを入れることもございますが、自分のものは自分でもつという形にし ております。

Q(船橋のSさん):詩集を読ませていただいて、とても感動いたしました。それで あのコニーと別れたあとは、今の里親のところにお訪ねすることはできるのですか。
A:コニーは鎌ヶ谷に行っております。訪ねることができません。決まりということ ではないにしても、私は二頭目の盲導犬のパピィと一緒に生きていますので、私の身 体にはパピィの匂いがついています。コニーはせっかく向こうの方をご主人と思っ て、いま一生懸命向こうで生活しています。本当にコニーと別れるときには、寂しい というか、悲しいというか、苦しいというか、そういう思いをしました。いままたコ ニーに会いましたら、コニーも心が波打つでしょうし、私なんかは心が口のあたりか ら出てしまうぐらいな、そういうことになってしまいます。本当にコニーの幸せを 願っています。ただ、コニーを引き取ってくださった老犬ボランティアの方は、メー ル上でいつもコニーの様子を書いてくださっていますので、それはとても嬉しく思っ ています。

Q:思い出させてしまってどうもすみません。
A:いいえ、大丈夫なのです。ありがとうございます。
 ご希望があれば、私は自分の作った詩に曲をつけて歌うこともいたしますから、み なさんどうぞなんでもおっしゃってください。ピアニストを連れて来ようと思ったの ですが、そのご要望がなかったものですから、一人で来ちゃったのですけれどもね (笑い)。もともと作曲も好きなのですね。コニーが来てからとっても詩が書きたく なって詩を書きました。書いた詩に自分で曲をつけて、自分で曲をつけるのだった ら、自分で歌いましょうということで、ちょっとしたミニコンサートなんかも開いた りしております。

Q(千葉市のKYさん):中村さんの詩を歌ったのを以前に聴いて涙を流したことが ある。それを歌っていただきたい。
A:1曲だけ「もしも」を歌ってみましょう(拍手)。
 もしも 奇跡がおきて 目が一瞬でもいい
 見えたら ふたりの娘を見たい
 長い髪が風にやさしく揺れて 呼ぶ声に振り返る娘の笑顔を
 眩しそうに目を細めてる
 もしも 奇跡がおきて 目が一瞬でもいい 見えたら ふたりの娘を見たい
 見えなくなったおかあさんの目となって ハーネスをつけて歩くパピィの姿
 瞳に映る やさしさ見たい
 そしたらこれから ずうっとずうっと ずうっとずうっと
 暗闇でも 耐えていけるかもしれない
 もしも もしも もしも

 私、楽しい人間なものですから、だんだん地が出てきまして。私がいつも心に願っ ていて、気をつけていることというか、いつもこうありたいなと思っていることにつ いて、少しお話したいと思います。それは心の中の引き出しに入っているものを満た しておきたいなと思っていることです。人間には二つの五感があることをみなさんご 存知だったでしょうか。ひとつ目の五感というのは、視覚と聴覚、触覚、味覚、嗅覚 という五つの感覚ですね。視覚、見ることの感覚、聴覚、聴くことの感覚ですね。触 覚、触れて、味覚、味わって、嗅覚、においをかいで感じる感覚ですね。そういった 五感といわれているものがあります。私たちはその中の視覚という感覚が侵されてい る。網膜色素変性症という難病のために侵されていって、徐々に視力が低下してしま います。視覚という感覚が失われていきますね。ところが私たちだけではなくて、高 齢者、お年を召した方は、視覚障害者と呼ばれないにしても、白内障とかで目がだん だん見えなくなったり、補聴器、聞こえにくくなったり、足元もおぼつかなくなった り、高齢のために五つの感覚のうちの、一つ、二つ、三つとだんだんと弱くなって失 われていくことが多いみたいです。
 ところが私たち人間として決して失うことはない、失ってはならない感覚がござい ます。どういうものかといいますと、感情、私たちのいろいろな思いが入っている感 情ですね、感情を中心とした、感動、感謝、感激、感銘といった、この五つの感、五 感は忘れてはならないもののような気がいたします。
 そうですね、もうすぐ秋になると樹に柿がなります。ああ柿がなっているなあ。あ の柿は甘柿でおいしい。そう思うのは知識ですね。柿がなっているという知識。そし て実際に手を伸ばして知識を応用する能力が知恵と呼ばれています。それを取って理 解する、実際に皮をむいて食べる、ああおいしかった。どういったことを申し上げた いかというと、私たちは知識だけにとらわれるのではなくて、知恵とか理解、つまり 頭だけでものを考えるのではなくて、心を育てることがとっても必要な気がします。 心を育てるなんて、中村さん、そんな難しい話をよしてくれ、といわれますけれど も、そうではなくって、物事に対する感動、そういったものを培って欲しいと思って います。例えば、美しい花を見るときには美しい、香りのいい花の匂いをかぐときに は、香りがいいねって心から感動できる、そういった心の受容感を持って欲しいなと 思います。いま青少年や子供たちがいろいろな面で感動することが少なくなっていま す。無感覚というのでしょうかね。無感覚は蛸のようになってきて、本当にもっと もっと感じることが少なくなってしまいます。そういったときに私たちが生きていく 面で、五つの感覚、感情を中心として、感動、感謝、感激、感銘といった五つの感覚 を養いたいと思います。失われていくことをふり向いて恐れるよりも、いま、例えば 今日、朝目覚めて、朝の光を感じ、食事をいただき、それが当たり前のことではなく て、本当に感謝することであり、そしてまた小鳥のさえずりは、風のささやきは、も うすぐ夏が終わりといってせみが、せみしぐれ、鳴いていますね。感動ですね。短い ときを精一杯生きています。そういった五つの感覚を持っていたいなと思っておりま す。パソコンのインストラクターをさせていただいておりますと、自分自身が知識と して学ぶだけではなくて、それを知恵、理解といった仕方で、生徒さんとともに学ぶ こと、これは二つ目の五感である、感謝、感動、感激、感銘、感情といった、そう いったものをともに分かち合うことのできるよい機会なのだなと思っています。その 二つ目の五感は、黙っていて満たされることは決してないのです。どういうことかと いいますと、私たちが私たちの中でそれを咀嚼して、飲み込んで、初めて栄養になっ て、培われるものなのです。ですから、本を読んでもいいでしょう、音楽を聴いても いいでしょう。ただ、漫然とするのではなくて、その中にやはり生きることに対する 感謝とか、喜びとか、そういったことを持つことをいつも考えております。ただ、み なさんにこうしてくださいということではなくて、私たちはそうあることがいいなと 思っております。心の引出しの中に二つ目の五感、そういったものを持ちつづけるな らば、人は心豊かに暮らせるのではないでしょうか。
 毎日の生活の中で、「ありがとうございます」とか、「ありがとう」という言葉が ありますね。そんなときに、みなさん「ありがとう」に笑顔を添えておられますか。 鏡をご覧になって、もう私は鏡が見えませんけれども、笑うことを練習すること、こ れはとっても必要なのですよ。人間の顔の表情って、だんだん黙っていても固くなり ます。笑顔ってとっても大事です。人と人の輪がだんだんと広がります。ですから、 日々の生活の中で、二つ目の五感を培うと同時に「ありがとう」という感謝の気持ち に笑顔を沿えて。そんなふうに思っております。
 このようにいろんな形で皆さんとお話させていただいておりますけれども、一人ひ とりの出会いは一生の中でそうたくさんあるものではありません。昨夜も小出支部長 さんと電話でお話しましたけれども、本当に私たちは同じ病気を持って、その中で分 かり合って生きていきたいと思います。分かり合えますよね。そういった中でこれか らもよい情報交換をされながらいかれると思います。私も機会があれば参加させてい ただければと思うのですが、なかなか難しい状況です。
 休憩のあとにお話させていただいたことは、二つの五感、人間にとって、視覚、聴 覚、触覚、味覚、嗅覚といったひとつ目の感覚は、だんだんに失われてしまうけれど も、もうひとつの感覚、感情を中心とした、感動、感謝、感激、感銘といった二つ目 の五感は、私たちがたとえ視覚障害者と呼ばれ不自由な思いをしたとしても、培って 育んで、その人となりの人間形成にとっても温かみを添えた、そんなものになるので はないかなあと思っております。
 まだ持ち時間がございます。みなさんと私、今日は3時までお時間をいただいていま す。終わりますと失礼しなければなりませんので、皆さんのお声を聞かせていただけ ればと思います。端の方からドキッなどとしないで、お声を聞かせてください。そし てそのときに何か質問事項とか感想などございましたら、お答えさせていただきたい と思いますので、端の方からお名前をおっしゃってください。私、皆さんとお友達に なりたいと思いますので、よろしくお願いいたします。


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