★パソコンと出会った私
私は指圧の仕事を自宅でしています。母親が生きていた時は、予約表の作成は母親
にすべて任せていました。しかし、母を亡くし一人暮らしになって、予約のとり方に
行き詰まっていました。佐藤久美さんと知り合い、また広瀬さんや太田さんを紹介し
ていただき、視覚障害者用パソコンと出会い、自分自身の生活が大きく変わりまし
た。
今までの自分は目が見えていないぶん、ノートを折り曲げ一番太いサインペンで線
を引き、毎月月末の予約表の作成には散々てこずり、自分の目が霞んでいるのかサイ
ンペンが無くなってきたのか判らず、常に月末は苦痛でした。
しかし、パソコンと出会いそしてエクセルによって予約表や住所録の作成が楽にな
りました。初めてパソコンを手にした時は、とても自分には扱いきれないと思ってい
ました。キーボードの配列も判らず、仕事の合間にもっと配列を覚える練習をしなけ
ればいけなかったのですが、ついついおっくうになり大事な時間を無駄に過ごしてい
ました。
戸惑いながらも自分で文字が打てるようになった時、パソコンの前に座りキーボー
ドを手にする事を楽しむようになりました。そして佐藤さんや広瀬さんの活躍を知
り、温室育ちの自分が恥ずかしくなりました。佐藤さんや広瀬さんの活躍を見ている
とハンディーは決して不幸な事ではなく、むしろ神様がこのようなハンディーをつけ
てこの世に送り出したのではと思うようになりました。
スポーツでも力の差がありすぎる場合はハンディーをつけると言います。また、競
馬でもハンディー戦と言って力の強い馬はより重いハンディーを付けると聴きます。
太田さんや佐藤さんや広瀬さんは視覚障害と言うハンディーを付けて五体満足の人と
やっと同じ立場になるのではと痛感しています。
世の中には五体満足に生まれながら、それを満足に使わない人たちが余りに多いよ
うに思います。それはとてももったいないように思います。視覚障害を克服しながら
精一杯に活躍する広瀬さん、佐藤さん、太田さんはむしろ五体満足な人たちより立派
な方と思います。自分も一日も早く皆さんに近づきたいと思います。
自分の経験が、家の中で引きこもり全く情報の入らない方たちの何かの役に立てる
ことがあれば本当にうれしく思います。心を開けばいくらでも手を差し伸べてくれる
人がいくらでもいると今は思っています。
(第2話)
今朝のラジオ番組に初メールを出しました。その番組に「今の自分は視覚障害があ
り、最近のラジオ番組のほとんどが葉書、FAX、メールによる投書のため、自分に
は参加できないのがとても残念でした。でも今年の四月に視覚障害者用の音声パソコ
ンを購入して、始めはキーボードの配列も判らずたいへんでしたが、やっと最近に
なってメールを覚え、仲間同士でメールの送信が出来るまでになりました」とメール
しました。そのメールが採用され、番組のアナウンサーに「漢字の変換も完璧だし誤
字もありませんね」と読まれ、とてもうれしかったです。
初めてパソコンを、手にした時は自分にはとても無理かなと思いました。電源の切
り方も判らず何度も太田さんに助けていただきました。住所録を全て消してしまった
時は、本当に悔しく思いました。それでも太田さんに「自分も同じ失敗をしたことが
ありますよ。どんどん失敗してください」と笑って言われたときは、本当に太田さん
の暖かさを感じその時のうれしさを今も忘れることが出来ません。
そんな自分のメールがラジオで採用されたなんて信じられません。これも太田さん
のお陰と感謝の気持ちでいっぱいです。そして6年前に母親を亡くし、もう年賀状に
は縁がないと思っていた時にパソコンで年賀状の作成が出来るなんて信じられませ
ん。今から24日の年賀状作りが楽しみです。
★地味なスポーツ
私は2003年秋から水戸市の偕楽園の南側に広がる千波湖のジョギングコースを
単独で走ったり歩いたりしています。早起きして千波湖の湖畔に向かいます。家から
湖畔までは2.5キロメートル、湖畔1周は3キロメートルあります。2004年1
1月には、千波湖を5周回れるようになりました。そして、つい先週の火曜日(11
月8日)に6周を達成。家からの往復とあわせて23キロになります。
千波湖の湖畔コースは、湖の岸辺側はアンツーカーというのでしょうか? 柔らか
な材質のもので路面がコーティングしてあり、外側は普通舗装となっています。
私は、その境目の材質の違いを白杖の先端でキャッチしながら走っていくのです。
ちょうど車のワイパーのごとくになぞるような感じです。
走ると言ってもすぐにできたわけではありません。前を行く人に追突したり、接触
する危険性があるからです。そこで、ズボンのベルト通しに鈴をつけました。
また、「おはようございまーす。後ろから行きまーす」と声を出しながら走ってい
ます。 時計と反対まわりをされている人が多いことに気づきましたので、このごろ
では逆走しています。
最近では、沢山の声なじみができました。すれ違うときに、行く手の様子を教えて
くれる人、声援をおくってくれる人、伴走を買ってくれる人も現れました(現在は1
人)。
最初は近所を歩行訓練のつもりで片道15分ぐらいの行程でやっていました。その
うちに欲が出て千波湖を目指してみようと思い立ちました。途中はとても危険な自動
車道路を通るのでその間はバスに乗りました。ついに、バスに乗らずに全行程を自力
でやりたくて早朝の時間帯に実行するようになったのです。
歩数を数えたり電柱やその他の障害物を確認したりと1ヶ月ぐらいはそんなことに
労力を費やしました。
また、出会う人には「おはようございます。」とご挨拶することを欠かしませんで
した。いざと言うときには誰かの救援を得なければなりません。声なじみはいくらい
てもいいのです。
この頃では早朝の行動もすっかり生活のリズムの一部として定着したようです。野
鳥のさえずりや千波湖の水鳥もにぎやかで大変心地いいですよ。皆さんと交わす挨拶
もいつしか楽しい会話に発展してきています。
視力を失っても自力で歩こうと行動を起こしたお陰で思わぬ世界が開けてきまし
た。
以上、私の地味なスポーツの紹介でした。
★生れて初めての講演
何かを伝えたくて、子供達に向けてあてなく書いた手紙が、ひょんな事がきっかけ
になり、新井さんから支部会報への掲載の機会を頂きました。たくさんの方々に読ん
で頂いたようで、ありがとうございました。皆さんとの出会いでまたひと回りおおき
な「人の和」ができそうな予感がして嬉しく思っております。「出会い」って本当に
大切だなぁって実感しております。今の私が存在するのもたくさんの出会いがあった
おかげだからです。自分自身の現実を受け入れられなかった私に、たくさんの勇気と
希望の光を差し込ませてくれました。
何の肩書きもない全くの一般人の私なので、偏った考え方をしている部分も多々あ
るとは思いますが、自分なりにこの厳しいハンディを克服しようと頑張ってきた道の
りをお話しする事で、かつて自分が経験した「どん底からの脱出」のきっかけをつか
まれるかたがいらっしゃるかもしれないと思い、思い切ってここに立つことを決心し
ました。
13歳で自分の見え方が人と違う事に気がつき、15歳で「網膜色素変性症」と診
断されました。多少の不自由を感じながらも健常者として名古屋女子大学短期大学部
英語科を卒業して、ユニー株式会社に入社しました。現在勤続19年です。
10年間はかばんとアクセサリーを扱うショップで店長としてのとてもやりがいの
ある仕事をしていました。販売職は私の性格にぴったりと合った職業でとにかく楽し
かったです。時代もよかったので頑張れば売り上げも上がり、ごほうびをたくさん頂
いて海外旅行まで連れて行ってもらいました。メンバーにも恵まれてとにかく充実し
た毎日でした。
初めての退職勧告は、二人目の出産を目の前にした時でした。視力の衰えはもちろ
ん感じていましたが、いろんな事が怖くて意地を張ってごまかそうとしていました。
あっという間に一年がたち育児休業が満了しましたが、復職願いをすんなりとは受け
取ってもらえませんでした。その時に初めて「私の目はやばいかも…」とぞっとして
いたのを覚えています。何かしなければと思いましたが何をしたらいいのか分かりま
せんでした。とにかく視覚障害にかかわっていそうな施設を調べてライトハウスとリ
ハビリセンターを見つけました。本郷眼科の高柳先生にも出会う事ができ障害者手帳
の申請をすすめられました。その時点で二級だと言われ、体がこおりつきました。
視覚障害者になった事と会社の経営方針の変更とのタイミングがぴったりと合い、
同じ店の事務所に配置転換して頂くチャンスに恵まれました。「電話交換を中心とし
た業務でいいので、無理な事ははっきりと言って下さい」との上司の言葉に安心して
いました。子供も小さかったので育児の忙しさであっという間に時は過ぎていきまし
た。でも病気は待ってはくれませんでした。真綿で首をしめられるようにじわじわと
見えなくなっていきました。気がついたら障害の程度は一級になっていました。
見えなくなると共に、職場での嫌がらせが始まりました。見えにくいというのはな
かなか理解されません。「見えないのになぜ仕事にくるのか?」「出来ない仕事がた
くさんあるのに何故給料をもらっているのか?」とどんどんエスカレートしていきま
した。そんな時の団結力はすごいパワーです。何だか自分がとても変な人間だと評価
されている事を職場の空気で感じました。見えないから何も出来ないと特殊な人種を
扱うように、偏見の方程式で片付けられているとたまらなく悲しくてみじめでした。
劣等感と孤独感で押しつぶされそうな毎日でした。「仕事=いじめに耐える事」と、
社会人としての意識が全くマヒしていました。
上司からも退職勧告、何度も呼び出されては攻められました。毎日毎日泣いてばか
りいました。「いったいこの先どうやって生きていけばいいのだろう」と絶望の未来
しかみつかりませんでした。そこまで追い詰められても退職だけは思いつきませんで
した。自分でも不思議ですが、納得していなかったからやめられなかったのだという
のが今の私が出した答えです。
自分の健康を脅かされたら誰でも怖いはずです。とても主婦的発想ですが、不安材
料をたくさん並べてそれをどうお料理するかがわかれば先に進めます。何をしたらい
いのかどんな努力をしたらいいのかと具体的に対応できます。目標がはっきりとすれ
ばそこへ向かっていくのです。そして食べる事が出来ればそれが「納得」かなと思い
ます。納得して現実を受け入れられれば道は開けていく事を知りました。たくさんの
方々に支えられた大きな大きなまな板を持てるかいなかは本人次第です。
その頃以前から考えていた、休職をしながら盲学校へ入学したいという希望を提案
しました。自分なりに精一杯考えた逃げ道を作ったのです。上司は「今すぐ明日から
でもその道へ向かって進みなさい」と賛同されました。やっといなくなると嬉しそう
にさえ感じました。結局休職は認められず、何もしないでいたらあのまま退職するし
かなかったはずです。
さっそく盲学校を訪問しました。先生からの紹介で新井さんと出会う事ができまし
た。泣いてばかりの私を新井さんは受け入れて下さいました。そこからが全てのス
タートとなったのです。
音声パソコンを初めて見せて頂きました。視覚障害者が使用しているという知識は
ありましたが、特別な方々しか手に入らないものだと思っていましたので、目の前で
操作されているのを拝見してとても驚きました。いつか私もとは思いましたが、こん
な職場環境ではとても無理、現実離れした夢だと初めからあきらめていました。
障害者手帳の申請をすすめて下さった高柳先生にもすがる思いで相談しました。あ
れから7年もの月日がたっていたのです。「あなたはこの七年間何をしていたの
?」。何もしなければ限界がくるのは当たり前だ。ただ見えないだけじゃないの、と
にかく始めなさい」と、とても厳しくあたたかなご指導をして下さいました。
聖霊病院の歩行訓練師の山本先生を紹介して頂き、三ヶ月間の歩行訓練を受けまし
た。今思えば、白杖での単独歩行は視覚障害者となった私の自立への第一歩だった気
がします。
山本先生には職場の上司との話し合いをして頂きました。シミュレーションのめがね
を用意して下さって、上司にかけてもらい、現在の私の見え方を体験してもらうとい
う貴重な時間を作って下さいました。歩行訓練の必要性と安全確保の重要性を説明し
て頂きましたが、上司は相変わらず「明日からでも休んで訓練に専念したらどうだ」
と話し合いは平行線のままでした。
ライトハウスで点字の勉強も始めました。ボランティアの方々や中途視覚障害者の
かたがたくさんみえて何だか嬉しい出会いがここにもありました。いろんな復職支援
の制度があっても、私には無縁な事だと思い込んでいました。パソコンやスキャナー
を活用して仕事をするなんて事は、いったいどんな人が許され受け入れられるのだろ
うと羨ましく思いました。盲学校への進学しか考えられませんでした。とにかくこの
職場、人間関係から自分自身の現実から逃げ出したかったのです。
新井さんからJRPSの会の案内を頂き初めて参加しました。同じ病気の方々がた
くさんみえる事に戸惑いました。私だけじゃないんだぁと胸のつかえがスーっとなく
なったのを覚えています。皆さん明るくて見えなくても声を掛け合い話に夢中で楽し
そうでした。いいなぁと思うと同時に自分から声をかけていました。今まで全く知ら
なかった仲間との「出会いの扉」が開き始めた瞬間でした。
とにかく参加出来る会には積極的に出席して勇気を出して発言をしました。自分か
らなげかければ、きっと何かが得られるかも、きっと誰かがアドバイスをくれるかも
という思いだったのです。同じ仲間の存在を知った日から、見えない事は恥ずかしい
事ではないし人として認め合う事が出来る、認め合っている人間関係がある事を知っ
たからです。
愛知視覚障害者協議会のかたとの出会いがありました。私の職場での状況を深刻に
受け止めて下さいました。会のほとんどのかたが幼い頃からの全盲なので実際にあん
まマッサージを仕事にされてみえるのですが、非常に厳しい現実である事を身をもっ
て感じながら生活をしてみえます。
私の盲学校への進学の意思を現在の会社での継続雇用へと方向転換させてくれまし
た。身をひく事しか求められていない会社の要求の中で、自分一人ではとても恐ろし
くて口にできない先への道でした。もちろん働きたいという願望があったからこその
決意でした。
労働問題を得意とされる顧問弁護士の中谷先生との出会いから八ヶ月かかり、やっ
と会社との具体的な話し合いが行われたところです。まだまだこれからの道のりは前
途多難で長い時間がかかると思っていますが、気がついたら相談の主旨が「いじめ問
題」から「もう一度会社に貢献したい。社会復帰を果たしたい」という思いにかわっ
ていました。
なかなか会社に話し合いに応じてもらえなかったという待ち時間もある意味有効で
した。歩行訓練が終了してからはパソコン講習を受講しています。点字もまぁまぁ読
めるようになりました。自宅ではゆっくりと座ってという時間がなかなかとれないの
で、職場の一時間の休憩を人目のつかない座敷にこもって読んでいます。とにかくた
くさん点字に触るようにしています。
現在の職場環境は随分改善されました。私自身が変われた事がきっかけになったの
だと思います。見えなくなる事で全てを許してもらおうとしていた甘えた考えをして
いた自分に気がつきました。自らスキルアップをして出来る事を提示していこうと
思っております。
実際に職場ではマイパソコンを使用してエクセル計算がとても役立っています。メ
モをとりちょっとした連絡文書や引継ぎ事項をプリンターを接続して必要な物はいつ
でもプリントアウトできます。スキャナーの持込みも許可して頂き、おおよその書類
を読む事が出来ます。手書きの物やどうしても読めない物、不安な部分だけを人に聞
いているという状況です。満足とまではいきませんが、目を通さずになんとなく仕事
をしているのとは意識が全く違っています。
今後の希望は、会社のパソコンを一台でいいので音声で操作できるように要望して
いこうと考えております。たくさんの事例を経験されて現場での実績を持っていらっ
しゃる専門家の職業カウンセラーの方に入って頂こうと計画をしているところです。
仕事を休んでしまえば、やめてしまえばどんなに楽だろうと何度も思いました。
「何故 そこまでして仕事にくるんだ」とどれほど言われた事か…。理解してもらえ
ず本当につらかった時期もありました。でも今は、見えにくいという見えなくなるま
での過程をどこにも隠れず全て見せてきた事が今の私に繋がっているのだとさえ思え
るようになりました。「あきらめないでよかった。何とかなるかもしれない」と未来
予想図が少しだけ見えかけてきた気がしています。
この先もどんな努力もおしまず、その気になる事が大切だと思っています。悲しい
時つらい時は思い切り泣いていいんです。涙の数だけ強くなれるって本当かもしれま
せん。アスファルトに咲く花のようにけなげに力強く自分らしさを取り戻して胸を
張ってキラキラと生きていけたら幸せだと思います。私は泣かなくなりました。
様々な病気や障害に苦しまれているかた、またそれぞれの家庭環境、職場環境と一
人ひとり状況が違うのは当たり前ですが、自分一人が苦しいのではない事を忘れては
いけません。家族は本人以上に苦しい思いや不安な気持ちになり悲しい思いをしてい
ます。代れるものなら見守る立場よりも見守ってもらう立場になりたいとさえ思う事
があるでしょう。
職場の方々もある意味、障害者になった私を受け入れる事に戸惑ってみえたのかも
しれません。理解してもらえないと嘆くよりも、わかってもらえないんだと相手を許
すだけでも気持ちが楽になります。自分が変われば周りも自然に変わっていく事を体
験しています。
いままでの私をかげ日なたとなって支えてくれた主人と子供達、黙って見守り子供を
信頼する勇気の偉大さを教えてくれた両親と義理の両親、私が先に死んだら目をあげ
ると言ってくれる妹とその家族、私を人格をもった一人の人間として認めしたってく
れる個性あふれるかけがえのない友人たち。これからの私もたくさんの人に囲まれ
て、「ありがとう」の言葉をかみしめながら歩き続けていくことでしょう。
余分な苦労はいらないと神様を憎んだりしたけれど、選ばれた人にしか与えられな
いものかもしれません。人の痛みに敏感になれたりとプラスになる事もあります。障
害という壁は乗り越えられるハードルに自分の力で変えられるものなのかもしれない
と、強く思う今日この頃です。
ゆっくりでもいいつまずいてもいい、たくさん泣いたっていいからとにかく前を向
いて頑張りましょう!! 必ず笑顔になれる日がやっってきます。一つとして無駄な
命はないはずです。
心のバリアフリーの心地よさをさわやかな風がふんわりとつつみこみ、あたたかな
しあわせをはこんでくれるように感じられるノーマライゼーションの社会が築かれて
いきますように…。希望にあふれる未来へのねがいをこめて、「ビリーブ」という大
好きな歌を歌わせて頂きます。
自分も含め視覚障害者の方々にはみていただけないことがとても残念ですが、息子
である五年生のさとるが手話をしてくれます。小さな心を優しさでいっぱいにふくら
ませて、勇気をふりしぼって決心をしてくれた彼なりの大きな挑戦です。
♪ ビリーブ
例えば君が傷ついて くじけそうになった時は
必ず僕がそばにいて 支えてあげるよその肩を
世界中の希望のせて この地球は回ってる
今 未来の扉を開ける時
悲しみや苦しみが いつの日か喜びに変わるだろう
アイ ビリーブ イン フィューチャー 信じてる☆
もしも誰かが君のそばで 泣き出しそうになった時は
黙って腕をとりながら 一緒に歩いてくれるよね
世界中の優しさで この地球を包みたい
今 素直な気持ちになれるなら
憧れやいとしみが 大空にはじけて光るだろう
アイ ビリーブ イン フィューチャー 信じてる☆
今 未来の扉を開ける時
悲しみや苦しみが いつの日か喜びに変わるだろう
アイ ビリーブ イン フィューチャー 信じてる☆
ご清聴ありがとうございました。