「この病気とつき合って その2」
T・M(男性 福岡市中央区)
前回はこの病気と付き合い始めた頃のことを中心に書きました。
今回は現在の私の生活の支えになっていることについて書いてみたいと思います。
10年余り前のある日、いつものように妻が新聞を読んでおりました。
既に私は新聞の活字が読めなくなっておりました。
妻が顔を上げ、
「次の日曜日にお父さんの病気のことについて北九州市で講演会があるようになっているよ」
と教えてくれました。
徐々にではありますが、確実に状態が悪くなっているという自覚はありました。
でも、何をどうすればよいのか、なす術を知らず、手をこまねいて時の過ぎ行くのを感受する以外にないような日々を過ごしておりました。
で、藁をもすがる思いで講演会に出かけました。これがJRPSとの出会いでした。
とにかくたくさんの人が集まってあることにびっくりしました。
また、見えにくくなることの不自由さを緩和してくれる用具や機器類があることを知りました。
一人で悶々としていた状態から解放された記念すべき一日でした。
それまでの私には、どのくらいの患者がいるのかも全く見当がつかず、もちろんこの病気の患者さんとお話をしたことも全くありませんでした。
今から考えると、情報から隔絶された人間がどれほど無力なものであるかということを物語る典型のようなものでした。
ですが、これをきっかけにJRPSにつながることができ、人と情報の輪がどんどん広がっていきました。
その中で、目が不自由になり失ったことを取り戻すための術を知り、不自由になっていく生活を社会的に支えてくれる制度の存在を知りました。
その一つ一つを周囲の方々の手助けを受け、努力しながら実現していくうちに、「目が不自由であってもこれから先の人生を悲観することは決してない」という確信を抱くようになって来ました。
そのうち今回は三つのことを書いて見たいと思います。
一つは「読むこと」についてです。
ほんの10数年前は、新聞は毎日隅から隅まで読んでいました。
昼休みか帰宅途中には必ずといっていいほどに書店に立ち寄り新刊書コーナーをのぞいていました。
また、電車に乗った時には目が自然と宙吊り広告に行っていました。
事ほど左様に活字中毒人間だった私が「読む」楽しみを奪われてしまいました。
で、何とかその楽しみを取り戻せないだろうかと色々と尋ねて回りました。
その結果、点字図書館に行き当たりました。
そこには点字図書ばかりではなく録音図書が置いてあり、全国の類似施設の相互貸借を利用すれば、30数万タイトルという膨大な録音図書が所蔵されているという事実を知りました。
それまでに読みたいと思いながら読み過ごしていたような書物もたくさんありそうでした。
全国の朗読ボランティアの方々がプレゼントしてくれる「録音図書」を通じて、引き続き古今東西の土地を訪ねることができ、そこに生きた人たちと会話ができることを知ることで、私は精神的に大きな安堵感を得ることができました。
でも、当時まだ私は身障者手帳を持っておりませんでした。
早速、点字図書館に出かけ、窓口の職員の方に尋ねますと、
「手帳の所持が登録の要件になっています。
でも、活字が読めないのであれば手帳交付の障害認定を受けることができるのではないですか」
とのアドバイスをいただきました。
私の場合、障害者手帳の交付を受けるきっかけはこのようなことでした。
今では、テープレコーダーやプレークストークを利用して、毎日たくさんの本や雑誌を楽しんでおります。
見えていた時よりも却って読書量は増えたのではないかと思えるほどになりました。
二つ目は「書く」ことです。
仕事をしていく上で「書く」という行為は「読む」「聞く」「話す」という行為とともに欠かすことのできない基本的な動作です。
1900年代が終焉を迎える頃には私の「書く」ための視力も終焉を迎えつつありました。
当時私は専用ワープロを使用して文章を書いておりました。
画面の活字が見えなくなりました。
入力をするためのキー自体も見えなくなってしまいました。
右手の人差指1本で入力をしていた私にとってはブラインドタッチのできることが使用の前提となる「スクリーンリーダー」を使いこなすことは至難の業に思えたものでした。
この時私は「書き言葉」を失ったも同然の状態で、お先真っ暗でした。
新たに配属された職場では、書類の作成はもうできないかと仕事の継続を諦めかけたものです。
幸運なことにその職場にはワープロが得意なアルバイトの方がおられました。
で、再利用用にとってある裏紙に、水性マジックで下書きをし、その方にワープロで清書していただき、それを拡大コピーして点検し、書類を仕上げるという方法で、とりあえず職場での「書く」ことをこなしておりました。
ですが、やがてルーペを使ってもそうした拡大コピーの文字を見ることが難しくなってきました。
周囲の目を気にすると机上に置くことは憚られたのですが、背に腹は代えられません。
拡大読書機を職場の机に据え、人の手を借りながらの書類作成が続きました。
ですが、これから仕事を続けていこうとすれば、自分でワープロ文書を作り、メールやある程度のインターネット検索ができることが最低条件ではないかと思うようになりました。
ですが、ちょうどその頃は、両親の入院・看病、死去、法事等の家庭の問題が相次ぎとても「スクリーンリーダー」の技術を学ぶゆとりはありません。
そのような状態が一段落し、ようやく自分のことに目を向けることができるようになりました。
以前から関連部門に配属された友人等には個人的に「スクリーンリーダー」の存在を話し、一般職員がパソコン研修を受けるのと同じように「スクリーンリーダー」の職場への導入を図り、操作研修をしてくれないかと働きかけてはいましたが、実現までには程遠いというのが実状でした。
ところが、私が「スクリーンリーダー」を教えていただこうと思って、門をたたいたインストラクターの方が私の勤務先の雲の上の上司に面識がおありでした。
それで、その方から事務的なレベルでは、「スクリーンリーダー」の導入について一向に理解を示してもらえないという状況を雲の上の上司に話していただいたのです。
すると、話はとんとん拍子に進み、職場のパソコンへ「スクリーンリーダー」が組み込まれることになりました。
職場で、自宅で練習を続けました。
このような中、ようやくブラインドタッチができるようになり、手探りで操作法を学び、簡単な文章を自力で書けるようになりました。
その時の感激は今でも鮮明に覚えています。そのような中で作ったのが、
「文字を得て 友へのメール うれし泣き」
という川柳でした。
三つ目です。
昔、山歩きが好きで、職場の友人や家族とともに山に出かけておりました。
ですが、見えづらくなってくるとともに、自然足が遠のいていました。
で、一度どの程度できるものかと、数年前に息子とともに鹿児島へ旅した際に、開聞岳に挑戦をしてみました。
後から考えるとかなり無茶な登山ではありましたが、「まだやれる」という手応えを十分に感じたものでした。
で、ある時、知人に、
「視覚障害者で山歩きをしているグループをご存じないでしょうか?」
と尋ねたことがありました。
すると、しばらく経ってからお電話をいただき、あるグループを紹介していただきました。
今では、月に一度のこのグループの山歩きが心身をリフレッシュするために生活になくてはならない楽しみの一つになっています。
また、30数年来ジョギングを続けてきました。
この数年見えづらく一人で走るのがとても辛い状態になってきました。
昔から走り慣れた公園でできるだけ人通りの少ない時を見計らってジョギングをしていましたが、昨年からはほとんど散歩に切り替えていました。
でも、ジョギングのあの爽快感が忘れられません。
球技などと違って、伴走をしてくれる方が居れば体力がある限りたとえ全く見えなくなったとしても走ることができます。
人と情報の輪がまたそのような夢を叶えてくれそうになってきました。
新約聖書に「求めよ さらば 与えられん」という言葉があるそうです。
多くの人がそうであるように、振り返ってみると私の50数年間の短い人生も、ままならないことが多かったように思われます。
でも、その時々に置かれた状況と自らの気持ちに折り合いをつけて、諦めずにプラス志向で生きてきたように思えます。
その積み重ねが、「不自由ではあるが不幸ではない」という言葉を実感させてくれるようになったように思います。
(完)