「この病気とつき合って」
Y・W(女性 春日市)
初めまして私は、春日市に住んでおります渡野 八千枝ともうします。
どうぞ宜しくお願い致します。
私は、網膜色素変性症で、現在の視力は明暗が判る程度しかございません。
物心付いた頃から夜盲症で、暗い所はほとんど見えませんでしたが昼間や電灯の下では、なんの不自由も感じる事無く過ごしておりました。
私が20歳頃に、この夜盲症を治す事は出来ないのかと、九大病院の眼科で、診察を受けました。もちろん何の治療法もありませんでした。
そして先生から、「貴女は40歳頃から段々視野が狭くなりやがては、失明するでしょう」と言われましたが、私はその言葉を受け入れる事も、また理解することも出来ませんでした。
まだ20年も先の話ではないか、その内にきっと良い治療法が見つかるに違いないと、確信しておりました。
当時の私は恥ずかしながら、自分の目の病気に対して何の知識も有りませんでした。
それよりも、日々の生活に追われ自分の目の事を、考えるゆとりもなく、年月は過ぎて行きました。
やはり40歳を過ぎた頃から少しづつ視野が狭くなって行きましたが、それほどの不自由もなく過ごしておりましたが、50歳頃になりますと階段の段差が見えなくなりました。
不安と期待一杯で眼科の診察を受けましたが、やはり何の治療法もみつかってはおりませんでした。
そして先生から、「貴方は何故、障害手帳を申請しないのですか? 何か差し支えが有りますか」と聞かれまして、私は障害者になるのですかと、聞き返した事を思い出します。
昭和62年、視覚障害者4級の手帳を、頂きました。
私はそこで初めて、自分の目の重大さに気が付きまして、それでは点字を勉強しなければと思い、色々な施設に問い合わせましたが、簡単に勉強出来る所は有りませんでした。
知り合いの針灸の先生から、福岡県盲人協会を、紹介して頂きまして、早速に福岡県中と失明者緊急訓練に、参加させて頂きました。
初めての2泊3日の宿泊訓練は、心細さと緊張感一杯で参加致しましたが、私よりもまだまだご不自由な方々が参加しておられまして、生活の知恵と、勇気を沢山いただきまして、大変元気づけられました。
それから毎年のように参加させて頂きお友達も出来、点字の指導も始まり、それなりに楽しい日々を送っておりましたが。平成10年突然に主人が心不全で亡くなってしまいました。
私は、主人に頼りきりで生活していましたので悲しみと喪失感で毎日泣いてばかりでしたが、幸か不幸か家事と3歳になったばかりの孫の世話、それに何よりの励ましはお茶のお弟子さん方に、早くお稽古を始めて下さいとのことで気持ちの整理が出来ました。
それから3年過ぎ孫の小学校入学と同時に、私も福岡障害福祉センターへ入所致しまして点字・歩行・パソコンを訓練して頂きました歩行訓練はアイマスクをかけての訓練でしたが、突然の真っ暗な世界は、こわいばかりで先生を困らせました。
2年間の訓練を終了後は、パソコン教室へ入れて頂き現在も勉強中です。
少しばかりの視力で家事いっさいを致しますし、近くの小学校からも時々呼ばれますので下手なお話をさせて頂いております。
現在は暇をみつけては、ナイーブネットで本をダウンロードして聞くのが何よりの楽しみです。
沢山のお友達に出会い、パソコンを指導して頂き、充実した日々が送れます事に、有り難く感謝致しております。