「必要は やる気の源」
I.A雄(北九州市)
それは、20年位前のことでした。
私と同僚が少し暗い機械室で、機会の故障を調べる為に電気系統の回路図を追っかけていました。
その回路図は私が自分でカラーマーカーを使って色分けしています。
そして、私が「このピンク色の回路に問題がありそうだ」と言うと、同僚が「Iさんそれはオレンジ色」だと言いました。
後程、私は一人で明るい場所に図面を持って行き確認しましたが、やはりピンクにしか見えません。
そう言えば最近暗い所も見えにくい感じがしていましたので、後日、眼科に行きました。
診断後、眼科の先生はしばらく無言の後「これは両眼とも網膜色素変性症」ですねと言われ、病状が進行すること、治療の方法がまだないと言うようなことを言われたと想います。
ある程度は覚悟はしていましたが、治療方法がないというのに愕然とし、進行するスピードはどれ位ですかと聞くのがやっとでした。
その後、職場では、梯子を上下したり天井の裏を這いずり回ったりする機戒修理や工事の仕事は無理となりまして、事務職に変りました。
それでもそれから10年位は墨字の書類は読めましたので何ら差し支えなく仕事は出来ました。
しかし、年々視野は狭く夜間は歩きにくくなっていくのが自分でもわかりました。
そして、墨字の普通の文字サイズが読めなくなり、会社を辞めました。
ルーペとか、拡大器を使用すれば続けられたのかも知れませんが、私の生き方として、閑職に甘んじることや、人より仕事が劣るというようなことは嫌でした。
子供がある程度自立出来てきたことも一因ですが…。
又、当時はこのJRPSの存在も知りませんでした。
もし知っていて、入会していれば、結果は違っていたかも知れません。
しかし、いざ会社を辞めると何もすることがなく、ラジオを聴き、TVを視聴し、たまに庭いじりをする位でした。
ただ、この生活はあくまでも受身でしかありませんし、自分の得たい情報というものが入りません。
このままでは文盲になりそうだと思い、「中途失明者パソコン教室」のチラシを見て簡単なキー操作を受講しました。
受講者は3人でしたが、私よりはるかに年上の方が見えない画面に向かって懸命に練習されているのに感動しました。
私がパソコンをしようと思った要因の中に趣味でやっている競馬の情報も見たいというのもありました。
一昨年は友人から「視覚障害者パソコン職業訓練」があると言う情報で受講することも出来ました。
パソコンを始める動機は、勿論、仕事に必要な方、メールがしたい、競馬の情報、ネットで買い物、なんでもいいと思います。
現在、週一度パソコンサークルに通っています。
まだまだインターネットの情報等も画面を行ったり来たりでなかなか目的のサイトにたどりつきませんが、継続は力なりを信じてやっています。
「必要は発明の母」と言いますが、私にとりましては「必要はやる気の源」となっているのでしょうか。
私はこの病気になっても病気を恨んだりはしていません。
世の中には、いろんな障害者の方がいます。北欧の国では「神以外は皆、障害者」という考えがあるそうです。
それで、福祉に対して進んでいる国が多いのでしょうか。
しかし、私が一度だけ情けないと思ったことがあります。
3年前だったと思いますが、「世界網膜の日」に春日のクローバプラザで、講演された方が「色変の治療確立までには、皆さんのお子さんが皆さんの年になる位までかかるでしょう」と、言われ、会場は自嘲的な笑い?が起こりました。
子供が親の年になるということは、平均25〜30年ということでしょうね。
私は、真摯に日夜、治療方法を研究されている先生達はこのような言論は言われないのではないかと思います。
この時だけは、何故か情けなくなりましたね。
最近、細胞シートで心臓快復の記事や、万能細胞のニュースを耳にしますね。
これが私達の病気の治療にも結びつけばいいなと思う日々です。
最後に、私がいろいろ出かけられるのも、手引き者として一緒に白杖の訓練を受け、使い方は私より上手?な、妻のお陰だと思っております。