「見えなくなって、見えてきた」
E・M(男性 大野城市)
RPとはあまりにも衝撃的な出会いでした。
あれは大阪で現役として勤務していた平成5年のことでした。
家庭訪問のため、駅からタクシーに乗って、お客様のところまでいき、料金を支払いタクシーを降りて、歩き出した時のことでした。
季節は丁度田植えの時期で、田んぼには青い苗が植えられ水もたっぷり入っていました。
私は、タクシーと同じ方向に歩いていたつもりだったのですが、なんと、田んぼの方に進み、水が豊富に入った田んぼの中へ転でんでしまいました。
背広からスーツケースまで泥んこになってしまい、お客様のところで、お風呂に入れていただき、下着から靴まで、全てをお借りして家に帰りました。
これは、私にとって屈辱的な出来事でした。
どうして田んぼへ向かって歩いたのか分かりません。
疑問がつのるばかりでした。
家庭で話し合った結果、ひょっとしたら目に異常があるのではないかということで、一度眼科で見てもらってはということになり、軽い気持ちで病院に行くことにしました。
丁度、後輩が大阪大学病院の眼科の先生をしていましたので、彼を訪ねましたが、あいにく彼はアメリカへ留学中でした。
他の先生に診察してもらった所、開口一番、
「あなたは、網膜色素変性症という、進行性の病気で、現在は、治療方法が全くない難病です。将来失明をします」
との宣告を受けました。
私にとっては降って湧いたような話で、病名もはじめて聞くもので、しかも将来個人差があるというものの、失明をするというショックな宣告で家庭は騒然となりました。
私は、50歳前の働き盛りでもありましたし、また家のローンも残っており、また、子供達の受験前の大事な時期でしたので、目の前が真っ白になり、我が家の将来はどうなるのだろうと、一大事件の発生でした。
明日、見えなくなったらどうしようと、思案に暮れ不安な毎日でした。
仕事は、また子供達の受験は、そして将来の家庭生活はどうなるのか、等々不安がつのるばかりでした。
上司や先輩などにも相談した結果、55歳の第一次定年で会社を辞めて、大阪府立盲学校で東洋医学を学ぶことにしました。
学校でJRPSという患者の会があることを知りました。
丁度、新歌舞伎座で 澤口 靖子 が演ずる、RP女性をストーリーとした「蔵」というお芝居の公演にさきがけ、RP患者さんを招待するイベントがあり、私も観劇会に出かけました。
劇場内で、Nさんと出あった事がJRPSへの入会のキッカケでした。
この難病は、この世の中で自分ひとりだけではないかと思っていたのですが入会してみて沢山の仲間がいて、元気につどい、活動していることを知りました。
それから、機会があるたびに、支部交流会や宿泊研修会、全国大会、世界網膜の日のイベントなどに積極的に参加しました。
会場で出合った患者の仲間、そしてご家族の方、ボランティアさんたちが、さりげなく手を差しのべて下さったり、声をかけて下さいました。
多くの目配り、気配り、心配りをいただき、JRPSのすばらしさを肌で感じながら、それぞれが、支え、支えられてハツラツとしておられ、会場へ集った皆さんの、心の豊かさと寛容さに触れることができました。
皆様のお陰で、「見えなくなって見えてきた」ことが沢山ありました。
元気と勇気を与えて下さった皆様に、心から厚くお礼申し上げます。
病気の宣告を受けて以来、家に閉じこもりがちであった私は、いま、JRPSの会員となって、過去を振り返えると、この病気は、視力障害と視野障害があるだけでなく、情報障害と、コミュニケーション障害があることに気づきました。
治療法の研究開発は別として、この情報障害とコミュニケーション障害は私たちのちからで、ひとつずつ、解きほぐしていくことができるのではないでしょうか。
それが、ひいては、JRPSが目指す、活動の目標の一つである、QOL(生活の質)の向上ではないかと思います。
同じ病気で、ひとりでお家でモンモンとしておられる方がありましたら、交流会に参加され、仲間と出会い、ふれあい、わかちあい、そして、心豊かになっていただければと思う、今日この頃です。