「希望の光を持って」
M・S(男性 小郡市)
私が初めて目に障害があると気づいたのは小学校一年生ごろだったと思います。
黒板の字が見ずらい為に担任の先生に仮性近視でしょうと言われて、
「眼鏡をかけると自然に治ります」
と両親に話しているのを子供ながらに聞いていました。
これが最初に目に障害があると気づいたころです。
それから父親に連れられて、眼鏡や当時有名だった眼科医院にいきましたが、最終的には大学病院まで行くことになりました。
しかし、大学病院でも原因が分からず、弱視という診断がつきました。
これ以上悪くもならないし、良くもならないと言われたのを記憶しています。
その後、中学一年生になった頃、父親に連れられて九州大学病院に行って診察することになりました。
そこでも、両親が血族結婚の為にこういう病気になったのではないかと言われました。
今と違って詳しい説明を、家族や患者にされなかったので、色変という病名は言われませんでした。
その後、はっきりとした診断名がついたのは二十歳過ぎでした。
網膜の黄斑部変性がみられるため、当時としてはこの病気が進行するとは思いませんでした。
私の場合は五十歳半ば過ぎまでは一人で行動出来ていましたけども、その後は手引きなしでは外出が困難になりました。
それから、私の趣味と言えば学生の頃は陸上部で100メートルと砲丸投げと登山と、40代始めからはカラオケに熱中し、ストレス解消に役立っています。
60年間を振り返ってみると、視力障害があったことが決してマイナスでは無かったと思います。
いろんな苦難の道を歩んで来て、今の自分が有ることが良かったのではないかと思えるようになって来ました。
これからは暗いトンネルから抜け出して希望の光を持って頑張ります。