「仲間を大切に」
H・M(男性 福岡市東区)
「網膜色素変性症」、この診断名を聞いたのは40年くらい前でした。
病名はともかく、
[現時点でこれといった有効な治療法はありません。失明する可能性が高いです。]
というような内容を告げられたことを覚えています。
中学生だった私には、受け入れがたい告知でした。
近視と夜盲症、それに眼球震盪症が加わったのが小学5年生のころでした。
そのころから、
「特別な病気なんだ」
ということは、何となく感じていましたが、正式な病名を知ったのは高校受験を目前にしたころでした。
両親や姉、兄がこの病気を知っていたかどうかは尋ねたことはありません。
「将来、失明する」
このことで私の将来の選択肢はせばまりました。
せばまったと言うより、盲学校へ進み、失明すると言われた将来に備えるしかなかったと思います。
それでも、視力は0.3前後ありましたのでそれほど日常生活には困りませんでした。
困ったのは、私自身もそうですが、周囲がこの「網膜色素変性症」という病気を知らなかったことです。
外見からは「目が悪い」と見えないために、クラスメイトからも教師からも時として、私の行動が不可解に写ったことです。
社会人になった二十歳ごろも、さほど、視力は落ちませんでしたので、日常生活より、むしろ、周りに誤解されることが頭痛のタネでした。
私は、盲学校を卒業し三療の資格を取って整形外科に勤務したのですが、
「今度こらっしゃった先生は、いばっとらっしゃるね。こっちが頭ば下げたっちゃ、知らん顔しとるばい」
こういうことを、受付などに言っていく患者さんがいらっしゃいました。
勤務して間もないころは、同僚も私の見え方を理解していませんでしたので、結果として、看護士長に呼ばれて、説教・・・こういうこともしばしばでした。
これは多くの網膜色素変性賞患者の共通の悩みだと思います。
誤解を解く機会があればよいのですが、なければその誤解を解くことはできないのですから。
点字や白杖歩行の訓練などを、視力がある時にしっかり受けてけばよかったと後悔しました。
そうすれば、こんな誤解をされる状況は起きなかったと思います。
文字通り、「転ばぬ先の杖」ですね。
それでも、上記のような訓練は受けませんでした(猛省)。
ようやく白杖を使う気になったのは、数年前、あるサークル仲間の助言がきっかけでした。
網膜色素変性賞の発症から視覚障がい者、そして、現在では光を感じる程度・・・晴眼者から見れば、可愛そうな人生に見えるかもしれません。
確かにしないでいい苦労もたくさんしましたし、痛い目にもあってきました。
ただ、悪いことばかりがあったわけではありません。
私には大切な仲間がたくさんいます。
白杖使用の一歩を踏み出させてくれたのもその仲間の一人です。
そのほとんどが、視覚障がい者だったからできた仲間です。
この仲間から大きな愛情を受け、支えてもらっています。
その仲間を大切にして、これからの人生を生きて行きたいと思っています。