「障害に向き合おうとしなかった私」
H・N(男性 福岡市城南区)
これまでの私は、普通の人と同じように学校に行き、仕事をし、同じように生きていきたいという思いで、(視力が弱い)ことには背を向けていたように思います。
私の出身地は、鹿児島県の田舎です。
小学生の頃から視力はあまりよくなくて、最もよかったのは両眼とも0.7程度でした。
田舎の病院では病名もよくわからないまま中学、高校に進むにつれ視力も落ちて、教室では一番前、本もだんだん読まなくなっていたように思います。
大学は、橋や道路の設計をしたいと漠然と考えていたので、公立大の土木学部を受けましたが、視力不足でことごとく失敗しました。
そうそう方針変更もできず、視力にあまり制限のない理学部に修正して、翌年やっと福岡市内の大学に入ることができました。
大学では一番に付属病院で詳しい検査を受けましたが、そこで「網膜色素変性症」と診断され、視野が狭まり、いずれ見えなくなるかもしれないとはっきり言われました。
瞳孔を開く点眼で、まわりが真っ白いまま、ぼんやりと路面電車を待ちながら、ただ不安で一杯だったことを憶えています。
それから開設間もない福岡視力障害センターのことを知り、なにか進路についてヒントがないかと訪ねてみました。
そこでは期待に反して、障害者手帳が取れることと、はり・きゅう・マッサージの資格が取れるということだけでした。
このときに大学でやれるだけ頑張って一般の仕事を目指そうと決めました。
私の大学生活は、それまでの田舎の生活とは一遍しました。
まだ70年安保の熱がさめやらず、学生寮の部屋には赤いヘルメットがさがり、毎日のように学生集会とデモにあけくれ、ベトナム反戦運動がピークでしたが、それだけでなく水俣病訴訟やスモン訴訟支援活動など社会問題への関心も非常に高いものでした。
私の田舎でも水俣病と言われる水銀中毒が多く発生していることを知り、自分にもその影響があるのではと思ったりしました。
私が最も衝撃を受けたのは、サークルで訪問した福岡市内の重症心身障害児施設での子どもたちや青年のみなさんの行き方の一端を知ったことでした。
以来、大学生活の大半は、福岡市内の児童養護施設の子どもたちへの支援活動と福祉施設職員や学生との学習会などに明け暮れ、その関係は今も大事な関わりとなっています。
就職はやはり悩みに悩みました。
公務員や教員は視力の制限があり、民間はいくつか決まりましたがやはり将来が不安で、断念しました。
視力が弱いことも承知してもらって、サークル活動で関わっていた社会福祉関係に勤務することに決めました。
職場は県内を対象にしながらも30名余りの小さな職場で、福祉施設や市町村の職員の会議や研修など様々な仕事を任され、貴重な経験を重ねることができました。
それでも視力はだんだん弱くなり、それを隠しながら会議前にはひたすら資料を憶え、普通に説明ができるようにしてきました。
50歳も近くなり、はたからも随分悪くなっているとわかるようになると、書類はパソコンで読んだり書いたりできるようにはなっていましたが、なんとかもっと自分のスキルをあげないとと思うようになりました。
そのころ友人が、社会人が夜間にいけて、障害があっても受験できそうな市内の大学院があるから一緒に行こうと誘ってくれました。
大学に尋ねると、しばらくして代読代筆で受験が承認されたので、すぐ願書を出すようにとの返事があり、あわてて受験勉強を始めました。
視力の壁が厚かった30年程前とは隔世の感を感じました。
幸い二人とも合格することができ、仕事との両立は大変でしたが、のびのびと二年間を学生として改めて社会福祉を学びました。
その後、仕事は福祉人材関係や障害者福祉情報関係、保育園長と、福祉の様々な場面を経験しましたが、昨年度末に、中途で職場を退職しました。
昨年から、あいあいセンターで歩行とパソコン、今年になって点字を学んでいます。
その間、福岡障害者職業能力開発校のネットパソコンビジネス科(3ケ月)で視覚障害者用パソコンを集中的に学ぶ機会がありました。
退職して初めて、視覚障害という同じ立場である、あいあいセンターの訓練生やパソボラ虹、福岡市視覚障害者協会、そしてJRPSの皆さん方と本当に語らい会う場を持つことができました。
今まで普通の人と対等に、負けないようにと肩肘をはってきた私にはすごく楽にすごく素直に語れるようになりました。
私はまだこの病気にやっと向き合おうとしているばかりです。
改めて、今度は白杖をしっかり持って、もう一度一般の仕事に挑んでいきたいと考えています。
そのときにまたこの続編を報告させていただきます。