「過去・現在 そしてちょこっと先の事」
T・K(女性 北九州市戸畑区)
私は両親が従兄弟結婚、そして3才の時、高熱が3日間下がらなかった事もあって小さい頃から夜盲がありましたが、高校までは体育の球技の授業に支障があるくらいで普通に学校生活を送りました。
病名もわかっており、将来見えなくなるという事も宣告されていました。
しかし、その時は落ち込んでもいたのでしょうが、遠い先の事と想ったのか、今となっては、過ぎた時の流れがどれ程の苦悩だったかを忘れさせてくれています。
そして、卒業後、無謀にも岐阜県の紡績会社に就職し、交替番の短期大学に通うことにしたのです。
しかし、暗い所で見えにくいとか、青と緑の単独区別がつきにくいなど、少しは支障もあったのですが、ほとんどホームシックが理由で、半年でどちらも辞めて故郷へ逃げ帰りました。
今ではそういう学校すらもなくなり懐かしい思い出です。
それからは少し真剣に将来を考えるようになり、盲学校の理療科に入学し、鍼灸マッサージの免許を取りました。
その道を勧めてくださった先生に点字も教えていただいた事は今になって大変たいへんありがたく助かっています。
還暦も数年後となった今ではもう明るい暗いしか見えなくなりましたが、今は習得すれば音声パソコンもあり、メールやインターネットもある程度出来るし、ものしりりトークなどで点字が読めなくても物が判別でき、ヨメールや読み友などで活字も読んでくれるようになり、単純な色ならば識別してくれる機器まで出来て、ありがたい事にそれらのほとんどが日常生活用具として給付の対象になっています。
町へ出れば、点字ブロックが付いている所はかなりあるし、一通りの多い所は音声信号が付き、要望すればホームヘルパーさん・ガイドヘルパーさんを派遣してくれ、申し込めば歩行訓練もしてくれます。
昔だったらなるべく家から出さないように、人に知れないようにと家の中ばかりで暮らさねばならなかったでしょうが、今では、どんどん社会に出て行ってくださいと言わんばかりの体制です。
そして私も、教えて下さる先生がおられて水泳を習っています。
プール施設の方のご理解もあり今では家から一人でバスにも乗り、一人で泳いで帰る事も多くなりました。
泳いでいる時は何も考える事もなく、思いっきり手足を伸ばしたり動かしたり楽しい時間です。
しかしこんなに恵まれた時代になっても、私は自分がこの眼疾を受け入れる事は出来ません。
どなたか障害者になった方が著書の中で良かった事を書いておられたり、「不便ではあっても不幸ではない」などと言われたり、そして心の目が見えるとか、視覚障害があったために普通では知り合えないようなすばらしい人と出会えたとか、人の優しさにたくさんふれられたとか、どんなに言われてもやっぱり「見えたほうがいいに決まっている」と想うのです。
でも、仕方ありません。
こういう運命の中で自分が少しでも便利に楽しく生活できるようにしていかなければ、一度きりの人生、損かなーとようやく思うようになりました。
これからもあちこち首を突っ込まさせていただこうと想いますが、それもこれも、お世話くださる皆様の善意やお力のおかげとありがたく想っております。