「出会い・そして感謝」
N・H(男性 岡垣町)
正式に網膜色素変性症と診断されたのは、45歳になったばかりの平成4年10月の健康診断での眼底検査の結果からです。
確かに当時は夜盲症の自覚症状はあったが、視野狭窄の症状も出ていることや、RPが進行性の病気であることも意識はなかったので、特に気にすることも無く普通通りに、いや普通以上に夜遅くまで仕事をしておりました。
実際は晴眼者の見え方など知るよしもなく、私の見え方が普通より少し悪いかなと思う程度でありました。
ところが平成10年春頃に目がかすみ、見づらくなってきた、ある日ゴルフに行った時、手に持ったスコアカードが真っ白になり、文字が消えてしまった。それがRPの合併症の白内障からの症状とは知るよしもなかった。
又7月の健康診断の視力検査では視力が0.1までに低下しており、この時は正直驚きました。
10年早々に内勤の管理部門に転属して、今まで以上にパソコンを使って眼を酷使した所為かと思っていましたが、姉からそれは「白内障よ」との言葉に以前姉が白内障を手術した市内の開業医にて日帰りの手術をする事にした。
同時に特定疾患の申請に開業医からの紹介状を持って、産業医大で診察を受けることにした。
当時の産業医大の眼科教授の高橋広先生から、この病気の事について詳しく説明していただき、遮光眼鏡、縮小ルーペの紹介を受け、その縮小ルーペを手にしながら、普通の人はここまで見えるんだと思いながら、ルーペを持たずにこの範囲まで見える様になるといいなと思った事を覚えています。
又、高橋先生の「障害者手帳もっていますか?」の質問に戸惑いをみせながらも、とりあえず役場にて申請書をもらい提出した結果、「両眼網膜色素変性症による両眼視野障害」と記した、第1種2級の手帳の交付を受けた。
しかし、障害者であることの受入は出来ず、暫くは障害者福祉サービスを受けることもなかった。
当時会社では、障害者雇用推進責任者となっていましたので、法定雇用率維持のため、自らを雇用される障害者として届け出を出すことにした。
それから、車の運転も随分と危ない場面が頻繁におきる様になった。(運転免許書は、平成16年にゴールドで更新その後ほとんど乗らず、21年に失効した。)
又大阪に行ったとき、白杖も持たず、人混みの中で立ち往生、眼は相当に悪くなっていることを感じるようになった。
JRPSに入会したのは、平成15年7月でまだ現役の時です。
支部の交流会にも参加せずにいましたので、退会も考えておりました。
平成16年8月ちょっと早めの退職を余儀なくされた。(病気が直接の理由ではありません。)
当時は近くの開業医に通院していましたが、自分の見え方が今どんなものか知りたく、柳川に転勤されていた、高橋広先生を訪ねる事とした。
柳川リハビリ病院にて検査をしてまだ残存視力は十分にあるので、残った視力を上手く使う方法を指導いただいた、同時に障害年金について、下関の荒木さんを紹介いただき、障害年金についても、荒木さんのご指導で、勉強をいたしました。
荒木さんはその後、「患者の集い」での障害年金相談をしていただき、2011年は講演もしていただきました。
平成18年の総会に初めて出席し、幹事のFさんに「支部のお手伝いをして下さい」との申し出に、準幹事として最初の仕事はこの会報誌の編集作業でした。
当時も幹事の皆様が交流会・部会に熱心にお世話をされておられ、福岡県支部の活発な活動を知ることが出来ました。平成20年にしぶしぶ?支部長を引き受けしたものの一部に「やり過ぎ」との批判もありましたが、なんとか任期を努める事が出来たのもいい経験でした。RPであることでの、人との出会い、経験、それにも増して多くの感動をもらいました。
今は九大病院に6ヶ月毎定期検診により、経過観察を受けています。
最近は、網膜色素変性という言葉を新聞等でも目にすることが多くなりました。以前よりも治療研究も進んでいます。私達の子の時代、いや孫の時代には、きっと治療法が確立されていることを願い、この病気とつき合っていきます。そして皆さんに感謝しながら、これからも少しでもお役立ち出来ればと思っている今日この頃です。
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