T・K (女性 福岡市)
今年28歳、福岡で働き始めて3年目になります。現在の視力は右目が矯正で0.3、視野は95パーセント欠損の手帳2級です。
私は8歳のとき、網膜色素変性症と診断されました。
両親や祖父母は、早い段階で私の目が悪いことに気づいていたようです。3歳児検診の時から視力がでず、空を飛ぶスズメや飛行機が全く見えていなかったからです。とても心配した両親が、あちこち病院を回って検査した末、出た診断でした。
診断の際、医師から「治療法はない病気。次第に悪くなっていく。中学校は盲学校でしょう」と言われた両親は、大変ショックだったそうです。一方の私は、当時小学2年生で病名などもちろん知らず、メガネをかけていることと席替えのときいつも一番前なのがつまらないということ以外、何の不便も感じていませんでした。その後、中学・高校と普通の公立校に進学しました。
相変わらず分厚いメガネで一番前の席でしたが、成長するにつれて、夜盲と視野の狭まりを強く感じるようになっていました。矯正視力で0.7程度あったので、勉強に支障はありませんでしたが、体育、特にテニスやバレー等の球技がとても苦手でした。動くボールが速すぎて目がついていけない上に視野から消えてしまうためです。
高校へ進学してからは急に夜盲が進み、自分でも何かおかしいと思い両親と主治医に尋ねたところ、病名を聞かされました。高校1年の夏くらいだったと思います。そうだったのか、と納得がいったと同時に、失明する可能性もあることを知って、少なからずショックを受けました。当時の私は思春期真っ只中で、「普通」「皆と同じ」でいることが一番大事だと思っていたため、目のことは周りには絶対に言えませんでした。「暗いところが見えづらい」ことは友達や先生に何となく伝えていましたが、足元の段差にしょっちゅうつまづくとかボールを顔面で受けてしまうといった珍妙な行動はすべて「ドジなんだよね〜(笑)」でごまかしていました。
とにかく「普通」に振舞いたい、ということで頭はいっぱいでした。この態度は大学へ進学してからも変わらず、むしろ ひどくなっていました。外に出る度に「自分が変な行動をしてはいないか」「洋服やカバンが汚れてはいないか」「人やモノにぶつからないように目を見張って歩かなくては」「暗くなる前に家に着くだろうか」などなど、いつも気を張って生活していたような気がします。目も頭も使う毎日でしたが、それでも白杖なしで何とか1人暮らしができていました。
大学院へ進学した頃、右目の視野の中心部分に歪みが出て、右目の視力が全く出なくなりました。大学院のゼミは学部以上に厳しく、課される文献も大量でした。さらに関連する資料を図書館で探してコピーするのにも大変な時間がかかりました。教授や同期に目のことをきちんと伝えられていなかったため、適切なサポートをお願いすることもできませんでした。親や主治医にも相談できず、すべて一人で抱え込み、気が付いたら体を壊していました。
1年間の休学の末、復学したのですが、その間色々な本を読みました。中でも、デール・カーネギーの『道は開ける』には大変勇気付けられました。好きな言葉は暗誦するくらい読み込んで、今でも時々読み返しています。1年後、復学するときには、まず教授に病気のこと、手帳を持っていること、一人では難しい作業がありサポートをお願いしたいことを伝えました。その結果、同じ研究室の後輩が二人サポートについてくれ、資料探しやコピー、バス停までの送り迎えなどをしてくれるようになりました。本当に優しい後輩たちのおかげで、学生最後の1年間をとても楽しく過ごすことができました。
現在は、障がい者枠で採用していただいて、勤続3年目になります。就職するまでは「自分にできる仕事なんてあるのか」と不安でたまりませんでしたが、暖かい上司・同僚の方々に支えられて、毎日楽しく仕事をしています。就職と同時に白杖を持つようになったことも大きな変化でした。おかげで夜道も一人で歩けるようになり、以前よりずっと気楽に外出できるようになりました。あれほど人目を気にして「普通」にみせたいと思っていた自分が信じられないくらい今では抵抗なく目のことを話せるようになりました。
また、JRPSユースの活動へ参加したことをきっかけに、全国に同じ病気の仲間ができたことも喜びのひとつです。福岡でも、交流サロンの活動から仲間の輪が広がっており、とても心強く思っています。素敵な先輩方、仲間たちの出会いがあったおかげで、今の自分があると思っています。
最後に、尊敬する先輩から教えて頂いた私の大好きな言葉を書いて終わりたいと思います。
「目は人の良いところを見つけるために使おう。
耳は人の話を最後までじっくり聴くために。
手足は人を助けるために。
心は人の痛みがわかるために使おう。」
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