『私と病気』

                         ( 男性 H・I)

 網膜色素変性症 私が初めてこの病名を知ったのは平成10年、私が40歳の時でした。
 最近少し見えにくくなり、霧がかかったように感じていました。
いよいよ眼鏡をかけなければと思うと同時に、霧がかかったように見えるのも気になり、眼科に行きました。先生の診察が終わり「紹介状を書くので小倉記念病院の眼科で診察を受けてください。」と言われたので後日、小倉記念病院へ妻と一緒に行き受診しました。先生から白内障と網膜色素変性症を併発しているとの診断を受けました。この時、初めて網膜色素変性症という病名を知りました。

そして「白内障は手術すればよくなるが、網膜色素変性症は遺伝性のものであり、現在、根本的な治療法がありません。少しずつ視野が狭くなり、やがて失明するかも知れません。」との説明がありました。更に「現在の仕事をやめ、その時のために準備しておいた方がいいですよ。」と言われました。

 私も妻もショックで、帰りはあまりしゃべらずに帰ったことを覚えています。帰る途中、最初に受診した病院により、記念病院からの封筒を先生に渡しました。先生がそれを読まれ「やはり自分の診断と同じ病名だ。」と言われました。そして同じ病名の患者が何人もこの病院で受診していること、この病気に付き合っていきましょうと励まして頂いたので、少し気分が落ち着きました。

しかし、どうにかならないかと思い、評判のいい眼科を数件受診しましたが、同じ診断でした。同じ診断ならと最初に受診し励ましてくれた病院に通院を決めました。

平成13年の秋に白内障の手術を小倉記念病院で受けその時、先生の勧めもあり福岡県に特定疾患の医療申請をしました。その前後の頃、妻がJRPSの存在を知り加入しました。

白内障の手術を受け、一時は視力が両眼とも1.0まで回復しましたが、視野は少しずつ狭くなって、視力もそれに伴い低下しました。趣味の釣りをやめ、仕事も職場の上司や仲間が助けてくれ、どうにか務めていましたが、51歳の3月、限界を自覚し、33年務めた郵便局を退職しました。

 JRPS福岡の北九州地区の定例会に初めて参加したのは4、5年前にウエル戸畑で九大病院の村上先生の講演の時で、妻と共に出席しました。それ以降、時々参加し、知り合いもできました。田舎住まいなので交通の便が悪く、妻が用事がある時は駅までの足がなく欠席、自分の用事がある時も欠席という感じです。
でも出席すると自分の知らないことや、便利グッズの事、お互いの病気の進行状況、アドバイスなどをもらい、参考になります。今後も毎回は無理でも参加したいと思っています。友人が飲みごとに誘ってくれ、月1回のペースで飲んでいます。

旅行も春と秋に一泊で温泉旅行をしています。そのほか、日帰りで温泉に連れて行ってくれ楽しんでいます。いづれも友人が介助してくれ、友人には感謝し、有難く思っています。また、地元の身障福祉会に加入し、レクレーションや、年に2回程の一泊旅行にも参加しています。他の人が介助してくれ有難く思っています。

 妻にはこの病気で、いろいろと心配をかけ、私の代わりに、自治会の出事、畑仕事、庭木の手入れなどなどをやってもらい感謝しているのですが、つい一言、いらぬことで喧嘩したりします。

反省、反省、大反省です。将来、遺伝子治療や人工網膜などの治療法が確立し発病以前の視力、視野に戻り、網膜色素変性症は難病といわれたのは、もはや過去のことと宣言できる日がくれば、いや、来ると信じ希望を持ち毎日を過ごそうと思います。


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