あぁるぴぃ広島 14号


■特集■

 誰もがある辛い思い(西日本MLから)
 皆さんも同じような経験をお持ちなのでは?

1 三次のMです。
 多くの方の発症時期や進行状況を聞かせて頂き、一人ひとり違うものだなと改めて 感じています。
意外だなと思うことに、年をとってからの発症者が多いことです。私 はちっちゃい頃から夜盲症がありました。母親が気がついたそうです。60余年も前で すから網膜色素変性症のことがどこまで知られていたかはよく分かりません。
 こんな治療をしたと亡き母から聞きました。[眼注と肝油]をしばらく続けたと。残 念ながら症状の改善は得られませんでした。
 小学校のときは学芸会や映画館で部屋を暗くするのが苦手でした。みんなは平気で ワイワイガヤガヤ飛び回っているのに私はじっとしていなければならなかったからで す。
 中学校時代では、クラブ活動が長引くともうもう気が気でありません、一刻も早く 終わることばかり願っていました。遅く終わって帰る途中につまづいたり・物にぶつ かったり・溝にはまったりして一人でそっと涙したものでした。どうして・なぜ、悔 しい思いはずっと続きました。
 高校生のときは、いつも行動を共にしていた 唯ひとりの友に夜盲症のことを話し て助けを頼んでいました。
 大学生の二十歳のとき、もしかしていい治療法が見つかっていないかと大学付属病 院を受診しました。このときはじめて私の目の病名[網膜色素変性症]を知りました。
そして担当医が言いました[現在いい治療法ない、試しに眼注という刺激療法をして みるか]と。私はこれに賭けてみました。幼少のときのそれと同じだったようです。
いやいや痛いこと痛いこと。我慢しました。結果は以前とおなじで効果なしでした。
 社会人になってからも私の目の不自由なことは公表しませんでした。差別・不利益 を受けるのではないかと恐れたためです。社会人10年のとき上顎腫瘍で放射線治療 (=リニヤック治療)を受けた後、見え方は悪くなり仕事の継続は無理か、と考えてい たとき全盲で教壇に立っている人と出会いました。[公表して復帰しなさい]との忠言 を頂き、やれるところまでやってみようと復職願いをだしました。見えないのに見え るふりをしてきた数余年、きつかったです。公表する直前まで不安一杯でした。さす がに緊張しました。でも、公表したあとのあの気持ちよさはどう言えばいいでしょう か。なぜ今まで[ふりをする]というしんどいことをしてきたのだろうかと。職場の人 たちの理解のお陰と合わせて全国の視覚障害のある仲間と立ち上げた組織の支えが今 の私を育ててくださったと感謝の気持ちでいっぱいの現在です。
 孤立しているのが一番いけません。悪いほうへ悪いほうへと思いが向かいます。仲 間の存在はとても大きい力を与えてくれます。孤立している人の情報を得たら間をお かずに一声掛けるように心がけましょう。


2 Sさんから
 私は今、48歳にして、見えにくくなるとは・・・。こういうことなのかと、具体 的に感じています。
確かに、眼の体力ってあるなあと思います。世の中には、肩こり 症、冷え性、低血圧症・・・の人がいるように、私たち色変の患者は、年とともに網 膜色素変性症を感じることになるのでしょうね。私は、視力が0.5、6あったころ (14,5年前)は、卓球もできていましたし、自転車に乗ってもいました。しかし、 スポーツをすれば人とぶつかる、自転車に乗れば電柱に引っかかる・・・というよう なことが続くと、どうしても、身を引くことになるのです。こうなれば、体力は落ち る、目も疲れやすくなる。目の健康は、体力の低下とともに阻害されます。  私は、本来は、左眼のほうがよく見えていました。それがある日、目の前を棒の ようなものが横切ることに気が付き、眼科を訪ねました。診察結果は「硝子体混濁」 ということでした。網膜が丈夫なら、少しぐらいの混濁は、影響なく光を感じるので すが、色変の私にはその硝子体の混濁に微妙に反応することになったのでした。
だんだん左眼が暗く感じるようになるとともに、しらけ、まぶしさも、依然より増し て、見え方の変化として実感するようになりました。オゾン層が破壊されつつあると はいえ、太陽の光にさほどの変化はないはず、若いころは、なんともなかった光が体 力が低下すれば、厳しさを伴って網膜を刺激しているのだと思います。次は、負担を かけている右目か暗くなって、光を嫌うようになるのでしょうね。きっと・・・。
私は、これから先も、年齢の経過とともに「網膜の体力低下」の繰り返しで,さらに視 力、視野の変化を感じるようになるでしょう。
 この先、時間の経過を大切にしたいと思います。目の体力を考えると、身を引くの ではなく、何事にもチャレンジする気持ちが大切なのかなあと思いつつ、日々生活し ています。メールを拝見すると、マラソンに挑戦している人、山登りにチャレンジし ている人、音楽に夢中の人、自分にできることを見つけて、さまざまにがんばってお られる姿に出会います。励まされます。がんばりましょう。


3 福山の島の隠居Kです。
 私が22才のときです。若い眼科医が私の目の中を覗き「わあー、ひどいなあ。」 と言ってから網膜色素変性症と告知し1片の紙切れを手渡しました。何のことやら分 からずその紙切れを読みました。その内容には失明もありうると書かれていて、 ショックを受けたものです。しかし、その時は少し不便なだけで日常生活には大きな 障害もなく、遠い将来のことなので深刻に悩むことはありませんでした。
この病気が 深刻になってきたのは50才を過ぎた頃からでした。毎日の大阪での通勤ラッシュは 私の神経をすり減らすようになりました。
ある日のことです。私は見えにくいながら も注意しながら歩いていたのですが、前の女子高生にまともにぶつかってしまいまし た。「キャー、おっさん何すんねん。痴漢や痴漢やで!」女子高生は大声で叫び周りに 言いふらしました。私はその女の子に何度も詫び、頭を下げました。私が目の悪いこ とを信用してくれませんでした。次の日からです白杖を持って通勤するようにしまし た。初めてのときどうしても人前で白杖が出せず、夜道の誰もいないところで白杖を 使いました。思わず涙が出てきました。
 56才の昨年、視力がひどくなり2級障害年金を受けられるようになり早期退職を しました。これからいつまで見えるか分かりませんが自分を見失うことなく生きて行 きたいと思うばかりです。


4 府中市のTです。
 全国大会を境にして、大勢の方が参加されましたが、皆様ようこそいらっしゃいま せ!
私は23年前に腎臓が悪くなり人口透析を始めました。四年後のある日、眼がかす んで見えなくなりました。あちらこちらと病院を回りましたが診断の結果は同じで治 療する方法が無いからと門前払いでした。
東洋医学を頼って東京まで行きましたがい ずれ失明すると言う宣告を受けて帰りました。
N病院の眼科で一年に一度診察を受け ていましたが、カードの上下左右が読めなくなり、指の数がわからなくなり、電灯の 光が見えなくなり、太陽の明るさが判らなくなってから8年になります。今は50 代のおばさんです。病院と家の行き来だけで、出かけるときも家族の誰かが一緒でし た。
 三年前に透析の人から府中市の視覚障害者の会を教えて貰いパソコンを始める事が 出来ました。そして、その人からJRPSを紹介されてjrpsやメーリングリス トに入れてもらいました。今までは何にも知らなかった私は大勢の仲間が居る事や治 療法研究の進んでいるのに驚いています。この一年間に何回か会の催しに出させてい ただきましたが皆さんの優しさと明るさで楽しくなり、無理をしても来て良かったな あと、いつも思いながら帰ります。
 人口透析協会は本部が東京にあり各県に県支部があり各病院に支部があります。会 費は本部が300円、県が600円、病院が100円から300円を毎月集めていま す。此処までくるのは30年ぐらいかかっています。jrpsは10年目と聞い ています。まだまだ基礎固めの段階ではないでしょうか?これから皆で歩んでいけ ば、いつかは全国に支部が出来る日が来ると思います。
 追伸
  私はついこの前までは、両眼共に手動弁で、人の顔や、点字プレート・道路の白 線が全く見えなくなっていました。1月の終わりごろにMLに流れた、あぁるぴぃ千 葉県支部だより27号「網膜色素変性と眼科手術」を聞いて、白内障の手術をすること を決心しました。もうどうせ、見えていないのだから、例え失敗しても後悔すること はないと思ったからです。そして、4月に右目の手術をしました。結果は、霞んでは いますが、人の顔や、黄色い点字プレート・道路の白線が多少分かるようになりまし た。私は典型的なRPで、視野の欠損でした。今度は、7月に左目の手術をします。


5 広島市のKです。
 18歳でこの病気とわかり、就職はしたことがありませんが・・・。視力は現在、 手動弁ぐらいだと思っています。年齢は今年、最後の30代。息子がひとりです。
お産して、息子が年中さんまでは変わらない様でしたが、その後、数年で悪くなりまし た。
 学校の眼科検診は、いやでしたね。うちの学校は「治療中」と親が、サインすれ ば、良かったので眼鏡の矯正のため、小学校三年までしか眼科には行ってません。
今、思えば、高校一年の時、コンタクトレンズにし、眼科の検診で、先生が私の目を のぞきこみ、「フムゥ。」と言い、瞳孔を開き検査するので不振に思いました。先 生に「何か変わった事ありませんか。」と聞かれましたが「昔から、こんなものだ し特にありません。」と言い、先生も「そうですか。」で終わりでした。
ここの 看護婦さんに「ほんまに、コンタクトレンズ入れとるんね。よう見んさいや。」と何 度か、怒られたものです。その後、別の眼科へ、祖母を連れて行き、私も見てもら おうという軽い気持ちで受診しましたが、すぐ別の病院を紹介され、この病気だ とわかりました。
でも、私は長い病名で一度で覚えられません。先生も「今後の医療の発展に期待してください。」と言うだけでした。失明するなんて聞いてもない し、するのだともその時は思いませんでした。
 最近思い出して、高1の時には発病してたのだと思い、本当にボーッとしてるのは前からだったと再認識しています。
短大は、美術科に入りたかったのです が、美大の先輩に君の絵の色は変だよ。外の景色をよく見てごらんよ。と言われま したが、どういう事かわからないし、どうする事もできません。色弱になっていたの でしょうか。石こうデッサンなどでは、先生にこれ以上描けません。と言って、近 くで見て描いたり、隣の友達のデッサンを見て、この線とこの線がつながっているの だと聞いて描いていました。後に気がついたのですが、自分を表現する唯一の方法 だったのに、棄ててしまったのです。旦那には、「何もしてないじゃないか。見え ないのを理由にしてはいけない。おまえのは、ただの挫折でしかない。」と言われ ています。そうかもしれません。以前、ただの画集だったのですが、セザンヌの風景 画を見て、乾いた空気、柑橘系の香り、光あふれる透明感を感じ、またあの感動を 味わえないかと、息子と美術館に見えもしないのに行っては、絵のまえに立ってい ます。ただの悪あがきでしかありません。  私は、母の不注意から早産。未熟児として生まれ、保育器に二か月入っていまし た。私が眼の事を話すとつらそうで、母は自分を責めていたのでしょう。眼の悪い私 を受けとめられなかったのだと思います。私の眼の事は家族には何も話せなくなりま した。今思うと、これが一番つらい事だった様に思います。唯一、話せた祖母は私 が病名を告げられた日、ガンで余命三か月と診断されていました。祖母には「網膜の 穴は、焼き付けてもらったから治ったよ。もう大丈夫だから。」と言い、祖母は 「わしの事はどうでもいいんじゃ。あんたが、治ったのなら。よかった。よかっ た。」と言ってくれました。
その後、半年で他界。その頃を思い出すと悲しくなりま すが、病名を知らずに祖母は亡くなったのだと思えば、心が軽くなりました。母 は私以上に元気で、孫のためと同居ではありませんが、いろいろとしてくれてい ます。母は子供が皆死ぬのを身とってから、死にたいと言っています。出来るものな らギネスものですよね。
父は「娘が、眼が悪いと思うと外に出て楽しむ気になれ ない。」と言っているらしいのです。両親とも健在な事はありがたい事だと感謝し ています。
それから「子どもには、いろいろと教えられ励まされている。」とい うのは、本当ですよね。だからこそ今があるのです。息子に、負けてられないと、 点字を習い始めたのですが、点字の宿題が出来てない事もあり、息子には、何もいえ ないと反省したりしています。せめて、点字シールで物の区別したいです。がんばり ます。私事をながながとごめんなさい。



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