あぁるぴぃ広島 45号


■巻頭言

 網膜色素変性症と生きて
     監査 西村 秀夫(三原市)

 西村です。60歳になります。
 私が広島大学附属病院眼科で「網膜色素変性症」の診断を受けたのは、昭和61年12月でした。検査室の暗室の中で医師より「この眼の病気は現在治療方法が解明されておらず、視力の悪化は進行し、やがて失明するだろう。」と軽い口調で宣告されました
 医師の宣告は全く機械的で患者が如何に受け止めるか、全く配慮が無いように思われました。私自身は今後どのように仕事や生活をしていけばいいか分からず、落ち込んだまま病院を後にしました。通勤は翌日からも続けましたが、職場にいても家庭にいても為すすべが思い至らず、うつうつと生活していました。
 昭和60年か、61年か、静岡県沼津市に在住の方が同じ病名で、中国へ渡航し、東洋医療で治療した結果、病状が改善し進行が止まった旨の記事が読売新聞の全国版に発表されました。日本全国の網膜色素変性症の患者から沼津市役所に電話が殺到し、市役所の機能が一時パニックになったとのことでした。
 治療方法が全くないというのは、患者にとっては非常に苦しい状態であったため、東洋医学の治療を受けてみようということで中国に治療に行くというグループと国内で東洋医学の治療を受ける者とが多くおられました。
 私も中国へ治療に行こうかと妻に相談したところ、子どもが幼いため国内で治療をということで、兵庫県立尾崎病院の東洋医学科を受診し、広島市内で、東洋医学会の医師への紹介状を書いていただきました。
 当時は、NHK第2のラジオ番組「盲人の時間」の放送を聞いて、全国の情報を得たものでした。
(編集者コメント)
 日本網膜色素変性症協会(略称 JRPS)は1994年(平成6年)に設立されました。
 広島県支部は2001年(平成13年)2月に15番目の支部として誕生しました。
 西村さんの言葉の続きで、
 「現在は希望が持てる良き時代だと思います。「ユメをあきらめないで」いたいと思います。」
 という思いを代弁させていただきます。

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