巻頭言


    「私の JRPSとの出会い」

            広島市 Oさん 

 30年くらい前から小さな字が見えにくくなり、それから5年くらいしていろいろなものが見えづらく、物にぶつかるようになり不思議でした。
 まだ仕事をしていたので、近くにあったしらね眼科に飛び込みました。
そのとき「いずれは見えなくなります」と告げられて、なおさら目の前が真っ暗になりました。
「何で私なの?」 自問自答でした。
 涙は出るし、死にたいとも思いました。 でも、勇気がなかったのです。 
 今は、死ななくてよかったと思っています。
 その時に会社の上司が、いろいろな病院を探してきては「行ってみなさい」と言われ、白根先生に紹介状を書いていただき、行きましたが同じ結果でした。
 最後に、白根先生が「順天堂大学病院か大阪大学に網膜の権威がいます。どちらかに行ってみますか?」と 言われ、紹介状を書いていただいて大阪に夫と出かけました。 
 研究医が沢山いて、「私はモルモットか」と思いました。でも、結果は同じでしたので、白根先生にお願いすることにしました。
 平成11年の4月だったか、障害者手帳を申請していただき ました。
 それからは、白杖を身に着けるまで時間がかかりました。先生からは、「白杖を持ったほうが自分を守ることになるし、人に迷惑をかけないことが一番ですよ」って言われましたが、バックの中に忍ばせていました。
 JRPSの会を教えていただき、夫と一緒に参加をしていましたが、心がなかなか開けませんでした。その折に、白杖の訓練ができることを知り、お願いしました。
 それから東区の視覚障害者の方達を教えていただき、もう13年くらいになりますかねえ、「あかねトンボ」という会を4〜5人くらいでつくり、社協に集まるたびに今の自分たちの状況を涙ながらに話しては、「みんな同じだ」と考えるようになり今に至っています。
 これも、家族と歩行訓練士、社協の皆さんのお陰です。
 3年くらい前に、「あかねトンボ」の10周年を皆で祝いました。
 会社の上司に恵まれ、家族に見守られて今があります。
 ダイビングを教えていただき お魚さんに触れることができたり、亀さんにも触れることができ、楽しい時間でしたが、今はコロナでどこにも行けません。早く普通の時間を過ごしたいと思っている今日この頃です。
 苦しいこと、悲しいこと、いろいろあって書ききれませんが、私は思います
。「不自由だけど不幸ではない」と。
 目がこんなにならなかったら、いろいろな人に出会うことはなかったし、今が幸せだったらいいのかなぁ。

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