巻頭言


    「友人が残してくれたもの」

                広島市   N 

白杖をつきながら歩くようになって、かれこれ25年ほどが経ちます。
当初は少し抵抗もありましたが、今では外出時の欠かせないアイテムとなりました。
最近、駅や街中を歩いていて感じるのですが、以前に比べて声をかけてもらう機会がとても増えました。
電車に乗るとき「ドアはこちらですよ」とか、横断歩道を渡るとき「青になりましたよ」など、さりげない言葉なのですが私たち視覚障害者にとってはその一言でどれほど安心して外出歩行できることでしょう。
思わず「ありがとうございます」と笑顔になり、心が温かくなります。
私は12年前に、駅のホーム転落事故で大切な友人を失いました。
あまりにも突然の出来事で、本当に信じられませんでした。
その日は広島で初めてブラインドテニスのダブルス大会が開催された日でした。
寒い寒い雪の降る日で、新幹線にもかなりの遅れが出ていて、県外から来られている選手の皆さんをお見送りするのに苦労したのを覚えています。
なんとか最後の選手をお見送りしたあと、私たちスタッフもそれぞれ帰路につき、冷えた体をお風呂で温めベットに横になり眠りに着いた頃、夢の中で携帯電話が、けたたましく鳴りました。
電話の相手は自分が誰だと名乗るのも忘れて、「Tさんが電車にはねられて死んだ」と悲鳴のような声で叫んでいます。
その声が親友だとわからないほど興奮していて、夢の中で電話を取った私はその内容がなかなか理解できず 「え?Tさんてだれ?」と頭の中に浮かんできた疑問を口にすると、 「Tさんよ。ブラインドテニスのTさんよ」と、またしても泣き叫ぶ声。
そこでやっと夢から覚めて、これは夢じゃない、現実のことだと認識できた時、私は携帯電話を耳にあてたまま言葉を失っていました。
あれから12年。
今でもあの時、誰かが友人に声をかけてくれていたらと思うと、未だに悔しさがこみ上げてきて居たたまれなくなります。
今こうして声をかけてもらう機会が増えたのは、友人のように視覚障害者が事故にあったという報道を耳にした多くの人々の意識に変化が現れたことではないかと思うのです。
ブラインドテニスの生みの親でもある友人を失ったことは、私にとってだけではなく社会の損失であると同時に、友人が社会に与えた影響はとても大きいものになりました。
あの事故以来、急速に駅のホームドア設置工事が施工されていきましたが、全国レベルではまだまだほんのわずかの普及率でしかありません。
そんな時でも頼りになるのは人々の暖かい声かけが何よりの安全装置なのです。
二度とこのような痛ましい事故が起こらないことを祈りつつ、誰もが安心して外出できるやさしい街になってほしいと心から願っています。

次へ 目次