4.活動報告 ※4月22日 講演会
報告:K.M
4月22日(日)に第5回通常総会と講演会をおこないました。午後の講演会は、「私たちには伝えたいことがあります。少し耳を傾けてくださいませんか?」と題して、4人のメンバーが話をしました。見えにくくなってきた頃のことなど、始めて聞く話も多く、そうだったのかと驚くやら、つらい時期を過ごしてこられた話に涙するやら、前向きに過ごしたいという話に納得するやらでした。なか なか話しにくいことを勇気を出して話してくれた皆さんに感謝しています。
4人の講演者は皆さん一様に、「今出来ることをする。」「どうせなら楽しく暮らす。」「他者との関わりを大切にしたい。」と言っておられて、心に染み渡るような講演会でした。私も日頃の生活を思い直すことが多くありました。 講演会後の懇話会では、和気あいあいと色んな話題が上り、なごやかに話が進んで行きました。会場に一人、新聞記事を見て駆けつけて下さった、RPの生徒に係わっている学校の先生がおられました。何か力になれればというその方の気持ちに、会場の皆さんが応えて、たくさん意見やアイディアが出ていました。活発な話し合いが出来て、よかったと思います。遠方から来ていただいて、ありがとうございました。 報告:I.K
4月22日の岡山県支部総会の終了後に、支部の行事として講演会を行いました。ここでその概略を紹介します。
講演会の皮切りは私からです。 私の人前での喋り方は開口1番、少しの笑いを取ることです。これで会場の張り詰めた空気が和みます。 いよいよ本題です。まずは私の経歴から話します。 ★講演1 テーマ:JRPSとの出会い 講師:I.K 私は昭和29年生まれです。幼いころから夜盲の症状はありました。夜盲の症状に気付いたのは母でした。私は昭和36年に小学校に入学しました。その頃は、「ビタミンAの不足による鳥目」という言葉や、「未熟児網膜症」という言葉が盛んに使われていました。私は早産未熟児だったそうです。母の脳裏には「未熟児網膜症」という言葉が浮かんだようです。 近くの眼科で診察を受けましたが、そこの先生に大きい病院での診察を勧められました。 大きな病院での検査結果は、ビタミンAの不足による夜盲症でした。 この頃は小学生でも『鳥目』と言う言葉と、『鳥目には鶏の肝がよい。』と言う言葉は知っていました。ということは、多くの1次的な夜盲の人がいたという事だと思います。 昼間は見えるので、家族を含めて多くの健常者は夜が近づくと見えなくなることを、忘れています。暗いところで忘れられないために、存在感をアピィールします。そして、ドンドン前に出ます。かなり不器用な私は良く失敗をします。 数年間単なる夜盲症だと思っていましたが、「網膜色素変性症」であるという事を知りました。 前に出てよく失敗をするので、かなりの圧力がかかります。目が悪い事で職場からも、かなりの嫌がらせを受けました。そんなことが続いたある日、母が眼科から1枚のチラシを持って帰りました。 母親が差し出した用紙には、『日本網膜色素変性症協会岡山連絡会設立』の文字が書いてありました。この文字を見た時、『協会と名が付いているという事は、多くの仲間がいるからだなぁー。』と思いました。 急いで申し込み、その会に出席しました。会場に入ると、ものすごい人でした。私より若い人の姿もかなり見えました。やがて会が進行し、皆さんとの交流会が始まりました。ここで様々な情報を仕入れることが出来ました。 網膜色素変性症の診断を受けてから20年以上の年月が経過し、ようやく仲間を見つけ出せました。積極的に行動する事で、様々な情報を得る事ができます。今後も情報の交換のために活動したいと思います。 二人目の講演者を紹介します。 この方は網膜色素変性症ではありませんが、我々といつも行動をされています。この方の視力は右が0.01で、視野は殆どないそうです。しかし、自分に出来る事は前向きに走っていこうと思っているそうです。 最近マラソンを始められたそうです。今回はマラソンについての講演です。 ★講演2 テーマ:マラソンと私 講師:F.C 私がマラソンを始めたきっかけは、マラソンは個人競技で周囲に迷惑をかけないのと、自分が頑張ればタイムが伸ばせるし完走も出来ます。タイムだけを競うのではなく、自分に打ち勝って完走した時の喜びは何事にも変えがたいです。 昨年の11月からHさんや、Kさん達と一緒に走っています。 私たちが、一人で走る事は危険を伴うので、伴走者が必要になります。Hさんや、Kさんに紹介していただいた伴走の方が、すばらしい人なんです。 現在伴走者が14名、私たちが7名で走っています。一人だけではなく、友と走る事は本当に楽しいです。伴走の方が、四季の草花なども紹介してくださいます。11月から始めた私でも、先日京都で行われた障害者マラソン大会で10kmを完走することが出来、嬉しかったです。いつかフルマラソンにも挑戦したいです。 私は視力障害だけでなく、多発性筋炎という難病も抱えています。いつ筋肉が衰えるかわからない状態ですが、走れるところまで前向きに走ろうと思います。走るという事は筋肉もつき自分にとっても、良いのではないかと思います。 視覚障害者向けのいろいろなスポーツがあります。バレーもマラソンもやっています。皆さんも縮みこまないで、一歩を踏み出してください。私はこれからも、走れるだけ走り、すばらしい友を増やしていきたいです。 伴走者の方からの一言 話をしなながら、わきあいあいと走っています。走り終わって皆さんを見送りした後に、なぜか淋しさがこみあげてきてきます。私達のほうが皆さんの明るさや元気をもらっているからだと思います。これからもよろしくお願いします。 第三の講演者を紹介します。 この方はJRPS岡山連絡会設立に尽力された方で、方々で役員もされています。私のよき先輩です。 ★講演3 テーマ:元気なだけの私 講師:K.H 元気なだけがとりえの私が、「この元気の源はどこにあるのだろうか?」と、過去を振り返ってみました。障害も含めて経歴を話してみます。 私の父は神戸で働いていました。母は神戸っ子です。そんな関係で、私のすぐ上の姉までは神戸で生まれました。昭和19年、父の生まれ故郷の岡山県に引き上げてきました。そして私が生まれ、3年後に弟が生まれました。 弟が生まれて1年後、(昭和25年)線路工夫をしていた父が、事故で亡くなりました。 それから小学校4年の姉を頭に、全く身寄りのない父の里で母子6人の貧しい暮らしが始まりました。 3食ままならない時期もありました。今思い出すのは、紙芝居屋の持ってくる水あめやアイスキャンディー屋、1つ5円でしたが、それを母にねだる事はできませんでした。幼い子供でしたが我慢をしました。しかし、時々母がその5円をくれるんです。母から貰った5円を握りしめ、晴れ晴れとした気持ちで紙芝居を見た思い出があります。 いつもは眺めるだけだったアイスキャンディーを母が買ってくれました。今でもその甘さと冷たさが口の中に残っています。 父が亡くなってから母は行商をし、疲労で倒れて入院もしました。家事は分担し、5人の子供だけでやりました。1番上の姉が、私たちの面倒をよくみてくれました。私たちの誕生日には、ささやかでもご馳走を作って祝ってくれました。 そのころにはまだ目の障害はありませんでした。蛍狩りもしました。特に月見草の咲くのを見るのが好きでした。月見草は音がするように一片一片咲くんです。野や山も駆けずりました。貧しくても楽しい時代でした。 数年が経ち、女子高校生となった私にとって忘れられない事がありました。私の住んでいた家は、納屋を改造でしたものでした。電灯は裸電球に申し訳程度の傘がついているだけの薄暗い明かりでした。ある時上がり端に母がカレーライスを置いたんです。それを茶ぶ台に運ぼうと取りにいったんです。ところが一皿のカレーを踏んでしまったんです。一皿しかないと思っていたんですが、二皿あったんです。 アー見えない!見えてないんだと思ったショックは、映像として今でもしっかりと焼きついて離れません。でも月の明かりや街灯、自転車の明かりなどで、夜はそう不自由ではありませんでした。 母は「小さい頃に食べていないから鳥目にでもなったんだろう。」位にしか思っていなかったようでした。私も栄養失調の鳥目だと思い眼科にも行きませんでした。 高校を卒業し、自分の保険証が持てるようになって初めて眼科の門をくぐりました。眼科の先生は、若い娘に失明の先刻をするのは酷だと思ったのでしょう。「鳥目は治りませんよ。」とだけしかおっしゃいませんでした。それなら明るい街の人と結婚すればよいと思い、結婚しました。 それから10年経ちました。誰にも死角(陰に隠れて見えない部分)があります。その死角が多くなったような気がして、再び眼科の門をくぐりました。その眼科の先生に、網膜色素変性症と言う病名と、「50歳位までに失明します。今の医学では何の手だてもありません。」と告げられました。 もう目の前が真っ白でした。これがならくの底に突き落とされるという事かと、思いました。ショックでした。それから1年余り独りになった時に窓に向かって拝みました。W見えるうちに死なせてください・・・”と。更に、子供たちに遺伝していませんようにとも願いました。 反面まだ0.8の視力があったのでほんとうかなぁーとも思いました。勿論仕事もしていました。姑や主人、子供たちもいましたので、落ち込む余裕もなく、逆に幸せだったのかもしれません。 視力が落ち込み、仕事を止めました。仕事を止めて家庭に入っても結構忙しく、充実していたような気がします。今還暦を過ぎました。真ん中は殆ど見えません。外側にわずかに残る視力と、、家の中では手で触れて生活をしています。しかし、今は少しも苦になりません。アレも人生コレも人生と思っています。 そして、今は、多くの仲間や、サポートしてくださる方とも知り合え、幸せな時をすごしています。一歩踏み出したからこそ今の人生があると思います。これからの人生も自分の足で一歩一歩進み楽しい人生を作っていこうと思います。 4人目の講演の最後の方を紹介します。 この方は中学校の教師をされています。この学校は一般の中学校ですが、障害児学級があるそうです。講演の前半は、夜盲に関する話でしたが、私や3番目に講演された方のお話と重複した内容ですので、省略します。 ★講演4 テーマ:視覚障害と向き合って 講師:K.K 私は3人兄弟です。兄も鳥目です。 私が30歳の頃でした。眼科の診察を受けた兄が、「どうもただの鳥目じゃぁないようだ。おまえも早く診察を受けたほうがええぞ。」と言います。それまでは私もただの鳥目だと思っていました。 30歳という年齢でこの病気のことを知ったのは遅かったのだろうか?それとも丁度良かったのだろうか?・・・早い時点でこの病気のことを知ったとしても、果たして受け入れられる心の準備ができただろうかと思いました。 そして36歳の時に、合併症による白内障の手術を受けました。この頃は相談する人も、機関もわからず、一人で悩んでいました。 白内障の手術から10年以上経過し、少しトラブルがあったので大きな病院の眼科を訪れました。その病院にはロービジョン外来があり,その時に初めていろいろな相談や、福祉関係の話を聞くことができました。 更にJRPSの会や視覚障害者の会についても、教えていただきました。最初は参加する事に少し抵抗がありましたが、思い切って参加してみる事にしました。これが視覚障害者の仲間たちと、知り合えたきっかけでした。 こういう機会に出会えて自分の人生が大きく変わったと、今思っています。交流会に参加したおかげで、自分を素直に出せる場がある。回りを気にせずに話せる場がある。それだけで心が安らぎます。今までは全部背負い込んで悩んでいましたが、仲間と交流する事で、悩まなくてもよくなりました。 48歳ごろですが、識別がしにくくなり、一時期悩みましたが、皆さんとの活動を始めた時期だったので、皆さんのアイデアをいただき、案外早くに解決しました。 現在障害児学級を担当していますが、私が受け持っているのは、目の障害ではなく耳の障害なんです。異なった障害者同士で、より良いコミニュケーションができています。 皆さんとの交流をする事で、様々な情報が入ります。本当にありがたいことだと思います。 最後に私たち障害者は少なからず皆さんの、お世話になります。お世話になった方へ「ありがとうございます。」等の謙虚な気持ちを表すことが大切だと思います。 講演の紹介は以上です。 私から一言 私を含めて全員の方が、引込まないで常に前進をしています。皆さんと共に頑張りましょう。 |