4.4月27日 講演会 講演録
 ※テーマ:私の話、聞いてみない
 ※講 師:JRPS会長 釜本 美佐子 氏
★掲載にあたり、実際にお話しされた内容を一部変更してあります。ご了承ください。

 釜本でございます。こんにちは。私(わたくし、以下同様)、何回も講演させていただいているのですが、こういう固定式のマイクではなくて、今日は手に持ちながらお話しをさせていただくようにいたします。実は、この姿が一番私には心に安堵感を与えるのです。と言いますのは、長年にわたりまして、実は旅行業をやってまいりました。その際、自己紹介をするときには、今日は司会の方がなかなか丁寧に「会長、会長」と言ってくださったんですが、昔から私は「サッカーの釜本の姉でございまして、私は“サッカ”でございます。」というふうにご紹介を申しあげておりました。
 サッカーの釜本というのも皆さんわかっていただけるんじゃないかと思いながら、安心してお話しをスタートするわけなんですが、「いえ、サッカーの釜本なんて知らないよ。中田だよ、このごろは。」と言われるときがあるので、ちょっとガクッとするときがあるのですが、私が京都で育って、終戦後小学校6年生だった頃に、はじめて日本へ外国からスェーデンのサッカーのチームがやって参りまして、私の担任の先生が当時先生のクラブをやっていた方でございまして、生徒達を連れてサッカー見物に行ったということがありましてして、私は雨の中で観戦をさせられたんですが、全日本と世界とやりましたときに、そのときは終戦後間もないわけですので日本のチームはこてんぱんにやられた、なんて世界は強いことだろうというふうに、かわいらしい少女ながら考えた、印象を受けたということがございました。
 それからしばらくたちまして、弟が中学校に上がる頃に、なんとなく私の前で、「中学校に上がったら部活あるんやけど何しようかな。野球しようかな。」というふうなことを言ったものですから、私はそのときもう高校生になっていましたけれども、「あなたねぇ、野球だったらねぇ、どんなにうまくいったって、せいぜいアメリカへ行けるくらいだよ。オリンピックに行けるのはサッカーだよ。サッカーおやり。」と言ったことを非常によく覚えていまして、その次に私は「あなたがサッカーをやるんだったら、私は外国語を勉強して、ふたりでどっちが先に外国へ行けるか競争しようか。」と、ほんとに幼い兄弟が夢を語り合ったということが発端で、私は英語そして西洋史学というのを勉強して、そして弟はまんまと姉の言葉に引っかかって(会場、笑い)、サッカーをやったというのが実情じゃなかったかなというふうに思っているのですけれども、じゃあ、海外へ行く競争はどっちが勝ったかなということになると、やっぱり弟の方が先だったものですから、私はずいぶん悔しい思いをしたということがございました。
 それから、数年たって大阪万博がやってきた頃、古い話ですね、皆さんは大阪万博にいらした方はここの中に何人かいらっしゃると思うのですが、大阪万博の時に、私もやっぱり海外との仕事をしなければというふうな思いにかられまして、それで旅行業者の門をたたいて、日本にやってくる外国人を日本国内で案内するというな仕事をし始めたんです。まだ、海外へ行くのは本当に限られた人しか行けなかった時代なものですから、いずれは行きたいなと思いながら、まだまだ職業にまでならない頃でした。それから、そうこうしているうちに、私のおりました旅行業者が「海外専門のツアーコンダクターを作るよ。釜本、おまえ日本国内から海外へ移れ。」っていう部長さんの強い要望があったものですから、私も西洋史学を勉強したつもりでおリましたので、これ幸いとツアーコンダクターの方の道を歩んだと。それで、まあJTBなのですが、JTBのツアーコンダクター1期生として海外へ行くことになりました。それが私の“サッカ”ですと申しあげた第一歩かもしれませんけれども、それ以降ですね、まだまだほんとに女性が海外出かける、仕事で海外へ出かけるというのがすっごい少なかったものですから、ずいぶんあちらこちらへ行きました。今現在では、私の経歴を申しあげるときには、そうですね、まず140カ国くらい行きましたというふうに申しあげます。ところでちょっと質問ですけれども、世界ではこの地球上では何カ国くらいあるでしょうか?(会場、笑い)当てられたら困るという方はあんまりいらっしゃらないと思うんですが、そう200ちょっとというお声が聞こえました。約200弱ではないかと、国連に加盟しているのが200弱ではないかと思うんですけれども、そのうちの140カ国くらいに行かせていただきました。そして、一頃、私が海外へ仕事をし始めた頃は、1回海外へ出ると3週間から4週間、日本へ帰ってこないんです。今みたいにヨーロッパ7日間ツアーなんてないんですね。ヨーロッパ3週間、ヨーロッパ4週間というふなのが通常でしたので、まあいえば、ほんとに、ほんとにごく限られた人、つまり3週間も4週間も休暇がとれる、しかもその当時は1ドル300円近い、300数十円の時代だったですから、非常にお高かった。そういう時代ですので、ほんとに限られた人のお供をしながら出かけました。当時1回行ったら3週間、4週間帰ってこない、そんなことがありましたので、私の海外渡航回数はそんなに伸びてません。と言って300回くらい海外に行っています。(会場、笑い)えっー、そんなに伸びていませんと言って300回くらいです。
 ところで3週間から4週間かけて海外へ行って来たのですが、今ですとヨーロッパへ行くのにノンストップジャンボというふうな飛行機が飛んでいるのですけれども、今から数年前ですね、スイス航空が日本就航40周年記念という事業をやりまして、「釜本ちょっとおいで。」と言われまして、かつてのスチュワーデスさん、あるいは現在のスチュワーデスさんたちを集めて座談会をやったんです。そのときのスイス航空の担当者もたくさん来ておりましたけれども、スイス航空が日本からはじめてスイス、その当時はチューリッヒだったんですが、その他にはジュネーブにも飛んでおりますが、その当時チューリッヒへ飛んだんですね。でも飛行機はありませんよね。第1便が日本から就航するわけですから。それで、ちょっとクイズです。日本から就航させるために、スイスの飛行機がチューリッヒを発って日本へ来なければいけなかったんですね。どれ位時間かかったでしょう?・・・今は12時間くらいです。・・・18時間・・・24時間・・・もうありませんか?なんか脅かしているみたい。でも、これではっと当てられたら困るからって眠気が覚めるんじゃないかしらと思ってるんですけれども。
その当時はどういうふうなルートで日本へ来たかと言いますと、ちょっと地図を頭に描いてみてください。スイスヨーロッパの中心チューリッヒから、まず、ギリシャのアテネへ飛びます。ちっちゃな飛行機ですよ。アテネへ飛びます。それからイランのテヘランへ飛びます。イラクのバクダッドが有名ですが、その当時はイランのテヘランへ飛んだんですね。それからインドのニューデリーへ、それからタイのバンコクへ飛んで、それからフィリピンのマニラへ飛んで、そして日本に、羽田ですその当時は。・・・56時間、56時間というと3日くらいですか。正解に近いんですが、5日間です。(会場どよめく)ということで、私がしょっちゅう飛んでおった頃は、日本から今のルートで南回りで行きました。でも、もう夜間飛行ができていた時代ですので、日本からローマまであるいはジュネーブまでが約24時間。それからアンカレッジ経由の時代になって18時間、今12時間という時代ですから、だんだんと地球が小さくなってきたなあと。今サーズ問題がありますけども、地球はもっと小さくなってきました。いうふうなことでございました。
 そんな生活を15年くらいやっておりまして、一番ひどいときでひと冬に、赤道を、7回越えたことがあります。日本からオーストラリアへ、帰ってきてニュージーランドへ、帰ってきてタヒチへ、帰ってきてまたニュージーランドへ、というふうなかたちでした。
まあ、そんなことを15年あるいは16年というふうにやっておりました。
その終わりかけくらいですかね、目がねえシュッスッスッと痛みかけてたんです。それでおかしいなあていうふうに思いながらも、根がものすごく健康なものですから、お医者さんへ行かなかったんですね。ところがあるときヒュッと目にゴミが入りまして、ゴロゴロゴロゴロ、ゴロゴロして、これではいかんと、前の方に傷が付くかもしれん、洗ってもらおうということで、お医者さんに行ったんです。もちろん洗浄ですからすぐに目がきれいになってゴロゴロがとれたんです。そこでちょっと先生に聞いておこうと思って、「先生、私、最近目がちょっと痛いんですよ。シッシッと痛みがはしるんですよ。」と申しあげたんです。そしたら検査しましょうということになって、何だか今思い出すといろいろな検査をずいぶんしてくださったなあと思うんですが、検査が終わった段階で、「釜本さん、あなたは網膜色素変性症です。ほっといたらやがて失明します。」というふうな告知をいただきました。ちょっとはドキッてしたんすよ。それで、「で、先生、この痛みはどうしてですか。」と申しあげたら、「わかりません。」ということでした。
 それからしばらくの間は、その網膜色素変性症がどういうことかわからず、そのときはですね「いずれは失明するんでしょ、先生。20年かかるか30年かかるかわからないんでしょ。はは、そうですかあ。」て言って帰ってきたわけで、非常にそのときは見えていたし、まぶしいとも夜盲とも、あるいは視野狭窄とも、全然感じなかったものですから、笑って帰ってきた。それから、でも、色素変性症ってどういう病気なんだろう、本当に私は、そういうやがて失明するのかしらというふうな思いと、それから痛みは何が原因だろうというふうな思いがあって、悪い言葉ですけれどもドクターショッピングをさせていただきました。(会長、会場、苦笑い)
 あちらこちらに行ったんですが、色変ですというふうにはおっしゃるけれども痛みの原因はわかりませんでした。10年くらい痛みを抱えました。
 それはさておいて、そのときは笑い飛ばしたもんですから、別にどうって精神的にあまり打撃をいただいたことはなかったんですね。まあこんな病気だろうなってことは思っておりましたけれども。ところがそれから5年位しまして、今から7年前ですけれども、えっと、ちょっと計算合わないかな。(会場笑い)それでそのときにですね、ふっと手を見たんですよ、何の気なしに。そしたら、「あらぁ、指が3本しかないわ。」ということに気がつきました。いよいよ始まったかということで、視野狭窄がずいぶん進んでいるんではなかろうかと。いうことで、あのう…ちょっとドキッとしまして、それで、あっもうひとつ障害者手帳っていうことでですね、検査を受けに行って、受けに行きましたら、検査を終わった後でご託宣がね、なんか、なんかおめでとうございますって言われたような雰囲気で、「おめでとうございます、3級です。3級が出ております」とこう言われたんですね。おめでとうございますで3級がいいのか悪いのか、1級が悪いのか、何級が悪いのか全然わからなくて、不思議な人間であったわけですね。今、皆さんに申しあげたら、3級ってどの位かよくおわかりになると思うんですが、私はおめでとうございますと言われたような感じがして、3級が出ておりますって言われたんです。
 そのときに非常にうれしかったのは、私はドクターに行ってそういうご託宣をいただいたのではなくって、東京都のそういう障害者手帳を与えるための検査をするところ、そういうところへ行ったものですから、「3級が出ております。」「先生、3級が出ているんだったら、私はもうすぐに白杖がほしい。」ということで、白杖を買いに行ったり、手帳の手続きをしたり、ということをいたしまして、もうすぐに3級の手続きをしたというふうな状況でした。
ところが、その先生というか、検査官の方がですね、何をまかり間違われたかというふうに思うんですけれども、非常にありがたかったのは、まず拡大読書器の説明をしてくださいました。それともうひとつはですね、「釜本さん、あなたと同じように中途失明をなさった方で経営者ばっかりの集まりがあります。盲人経営者クラブというのがあります。」私、その先生に私が経営者です、釜本エンタープライズをやっていますなんて言ってないんですよ。ところが何を間違われたか、その先生が、JRPSを知らないんだけれども(会場、笑い)、盲人経営者クラブがありますということで、盲人経営者クラブを知りました。で、すぐに会長といわれる方に電話をしまして、そしたら「総会が広島であります。」って言われたものですから、もうすぐ広島まで飛んでいきまして、お目にかかって理解をしました。そのときに、そこで表彰されていらっしゃる方が、ボランティアの会長さんが二人来ていらっしゃったんですね。で、その会が終わりまして、いろいろな雑談をしたりして、そのときは終わったんですけれども、それからしばらくして、そのうちのお一人が、会いたいと電話をくださったんです。それで、その方とお目にかかりました。あとで聞きますと、その方は視覚障害者のためのボランティアをもう20年以上もやっているという方だったんですね。私は何にも知らないものですから、お目にかかって、「視覚障害者は情報の不自由と行動の不自由があるんだ。」ああそうですかとうかがったんですね。それで、その方が、実はいわゆる視覚障害者を手引きする会のボランティア組織が全国にいろいろあちこちにある。だけども、じゃ、たとえば岡山の方が東京へ行ったり、あるいは大阪へ行ったりするときにガイドヘルパーはなかなか見つけにくい。で、これからはインターネットの時代だとおっしゃるんですね。もう今から8年ほど前ですから、インターネットの時代だと言われたって、そうですかあと言いながらも、「インターネットでボランティアの会を組織したい、釜本手伝え。あなたには何にもさせないから会長役をやれ。」いうふうなことをおっしゃったものですから、「はい、わかりました。やります。」ということで、JBOSというのを立ち上げまして、会長をお引き受けしまして、そして全国の視覚障害者の外出を支援する会、岡山では手のひらさんですけれども、そういった外出を支援するという組織をインターネットで組織して、そして視覚障害者が全国どこへでも行きたいときにいつでも、というふうなスローガンの下にJBOSというのを立ち上げました。
 実を言いますと、第1年目に手を挙げてくださったグループはたったの「9」団体でした。つまり、9団体集まられましたけれども、だいたいボランティアの組織にインターネットなんていらんよというふうな方が、インターネットってなあにと、いうふうな事情でございましたので、ABCを打つところから指導を受けたというのが今から8年前でございました。おかげさまで、2期、3期、4期としていくうちに37団体、今組織しております。で、そのときに「釜本あんたは何にもしなくっていい。会長、ちょっとだけやってればいいんだ。」って言われたんですけれども、皆さんの活動を見ておりまして、私は長年旅行業におった関係で、そういうものを見るとむずむずしてくるんです。それで私もコーディネートの仕事をしようということで、JBOS東京というのを改めて立ち上げて、そしてJBOSで全国JBOSに参加して、JBOSはJBOSで東京でコーディネートをさせていただくというふうな仕事をさせていただきました。
 そのおかげで、ほんとうに全国でボランティア活動をしていらっしゃった方、そして視覚障害、行動の不自由を持ちながらも全国、非常に元気に飛び出している視覚障害者の方にたくさんお目にかかることができた、ということが私のひとつうれしい、張り切る要因のうちのひとつでございます。
 森本さんがここにいらっしゃいますけれども、お尻をたたかれながら東京では立ち上げをしていくというのが現状でございました。そのときに、盲人経営者クラブの中で、視覚障害者のオブザーバーとして来ている人が、JRPSの会員でいらっしゃって「釜本さん、あんたJRPSにいれとくわね。」いうふうに言われて、JRPSって何もわからないけれど「はいっ。」って言って、「はい。」って言って参加したのが運のつきで、全国の合宿が行われたときに参加したら、「東京に支部も連絡会もないよ。」ということで、「釜本、あんたが一番よく見えるんだからやれ。」って背中を押されて、東京連絡会っていうのを作って、そして、毎月1回の交流会だとか、あるいは歩こう会なんて称して散歩の会だとかやっておりました。
 私自身はこんなふうにしてJRPSに参加してきながら、それでも実を言うと、目がシュッシュッと痛い。でもまあいいや、もう10年持ってるんだからというふうに思っていたんです。ところが、あるとき明日国際会議でお手伝いを頼まれているのにと思うときに、ものすごいわぁーっと目が痛くなってきたんですね。それで、普通だったら目を暖めたり冷やしたり、何とか痛みを散らそうというふうに思って、寝たり起きたりするわけですけれども、そのときたまたまお医者さんに行こうという気分になりまして、で、お医者さんに行くのに、それまで一番初めに行ったお医者さんから「もう来なくていいよ。」って、実は言われたんですね。「網膜色素変性症っていうのは治る病気でもなし、薬もないし。」ということ言われたものですから、「もう来なくていいよ。」って言われたんです。それでそこへは行ってないし、ドクターショッピングしたけれども、どこにも普段かかっていないし、ていうことで、はてさてどこへ行こうっていうふうに思ったんですね。それが金曜日の夕刻なんです。それで、「あっそうだ、JRPSで講演を頼んだ先生がいらっしゃったからそこへ電話しよう。」と思って、講演をした先生にお電話しました。
 その方は視覚障害者の生活支援、歩行訓練なんかをしてくださる先生だったんですね。それで、その先生に電話をしたら、「うちの先生に今言ってあげるから。」っていうふうなことを言われて、それでOKをいただいて、診てあげるよということがあったものですから、金曜日の夕刻、もうほんと5時近かったんですけれども、その病院にたどり着きまして、もう、真っ白でほとんど見えなくなっている状況だったんですけれども、診ていただいたら、「すぐ点滴です。」とこうきたんです、で、「すぐ手術です。」という答えがきて、手術をしました。あとで病名聞きましたら、「きょう隅角緑内障」ということだったんです。「何ですかそれ?」ってまたのんきに聞いたら、「あと数時間もしたら失明ですよ。」って言われて、危機一髪で失明を免れた、いうふうな状況でございまして、その先生にも頭が上がらなくなったなあというふうな思いでございました。まあ、少しJRPSに入っていてよかったなあ、その先生を思い出してよかった、しかも金曜日の夕刻だったものですから、よかったあというふうな思いでございました。
 ところが、その先生に、手術の予後、何回か通っているうちに、深刻に「釜本おまえなあ」と言われて「JRPSの会長を引き受けるかあ」と言われて、「残酷やあ。」というふうに思ったんですが、世界会議が間近に来ていて、だれか会長さんを引き受けるかということになったらしいのですから、「ああ飛んで火にいる夏の虫とは私のことだ。」と思いながら、その先生に引っかかって、いう思いで会長職を引き受けて、そして去年の世界会議をさせていただいたというふうな思いです。
 実は、去年の世界会議で、ほんとに日本の方から、ほんとにありとあらゆる地方から1200名位の方が世界会議に参加してくださった、全世界から、日本はもちろんですが、40名以上の先生方が講演をしてくださった、そして22カ国から患者がやって来られた、いうふうな今までにない盛況な世界会議だったんですけれども、その世界会議を終えてみて、オーストラリアの方がこんなことを言いました。「私は視覚障害者になってよかったと思う。こんなにたくさんの友人が世界中にできたんだから。ほんとに会ったらすぐ友達になれるじゃない。視覚障害者になってよかった。」っていうふうな表現をされたんですけれども、私も同じだなあと、それまで世界を140カ国、300回もまわっていながら、ほんとに、友達はたくさんいますけれども、しみじみと同じ感情に立つことができない、ていうことから、視覚障害者になってよかったなあていうふうな思いがあります。
 それと同時に、私は会長になったときに、「このJRPSの中で会員の方ひとりひとりがJRPSって何を私たちにやってくれるの、というふうには求めないでください。私が、このJRPSの場の中で、何ができるのか、何をしたら楽しいだかということを考えて、JRPSに参加してください。」いうふうなお願いをした、就任のあいさつをさせていただいたことがあります。
 世界会議のすぐ直前だったですけれでも、ある京都の方から、わざわざJRPSの本部へ電話がかかってきて、たまたま私が電話をとったんですけれども、「釜本さん、京都でね、私、ちょっと変わった活動をしようと思うんだよ。」というふうにおっしゃったものですから、「何をなさるんですか。」50過ぎの男性でした。「何なさるんですか。」って伺ったら「乗馬をやりたい。馬が目になってくれる。馬に乗ることでなくて人馬一体になることによって、我々も癒しを受けるけれども、馬に乗ることによって楽しむんだ。」とおっしゃって、「会員は晴眼者でも視覚障害者でもいいんです。」とおっしゃったんですけれども、「それはすばらしいことです。ぜひおやりください。」と申しあげたんですけれども、その方、先日お電話しましたら、会員が視覚障害者30名、晴眼者60名、で、ミュンヘンオリンピックのときの馬術の選手だった人が、ボランティアで、今教えてくれてるというふうな活動をなさっています。生き生きとしたお話しをしてくださいましたので、世界会議、今から2年くらい前にお話を伺ったときと、ずいぶんその方には生き甲斐ができて、はりきって会を主宰していらっしゃるなあというふうに思った次第です。
 まあ、そんなことでJRPSの活動の中で、いろいろな土地に行っていると、色素変性症って先生にいわれましてあという悩みの声もたくさん聞かれますし、私自身、ああ、視覚障害者になったあと思ったときには、道を歩くときに目をつぶって歩いて、ほんとに見えなくなったらどうしようかしらって、いうふうに歩いて練習までしたってことがありましたけれども、やっぱり視覚障害者になる不安、あるいは失明する不安っていうのを、私だけがその不安を抱えていると思っていたときは、ほんとに全国を背負っているんだなというふうに思っていたんですけれども、一歩足を踏み出したら、私ってなんと驕慢な考え方をしていたんだろう、仲間がこんなにたくさんいるんじゃないかと、いうふうに思って、ずいぶん吹っ切れて、ああやっぱり仲間ってありがたいなあというふうな思いをしたことがあります。
 つい2年前ですけれども、そんなことで視覚障害者の仲間がありがたいことにずいぶん増えて参りました。あるとき、大阪のライトハウスの館長からお電話を頂戴して、「釜本さん、視覚障害者のサッカーって知っている。」ってこう言われたんですよ。普通のサッカーは弟が中学くらいから結構見ていますし、それからオリンピックにも何回か出かけてサッカー知っているし、女性の中でこの年でサッカー通と思っていたんですが、「私、視覚障害者のサッカーって、申し訳ないけど知らない。」って申しあげたんです。「実は、僕たち、視覚障害者のサッカーを韓国に見に行くんですけれども、それはそれとして、釜本さん、あんた弟さんがサッカーやってたんだから、視覚障害者のサッカーの役やってよ。」と言われたんですけど、視覚障害者のサッカーって見たことないから、「どうしてやれるんですか。」って聞いたら、「僕たちこれから韓国へ調査へ行く。」って言われました。それで、ほんとに私も飛行機に乗るのは、すっと足を一歩踏み出せばいいのですから、私も行きますよって簡単に言ったのが運のつきで、運のつきだったんですね。それで、韓国へ行って視覚障害者のサッカーというのを見たんです。ちょろちょろとやっているのかなって思ったんですよ。そしたらものすごく強いあたりで、ものすごいグラウンドを走り回っているんですよ。それがどういうふうな視覚障害者かと言いますと、それは多少視力のある方もいらっしゃるわけですけれども、条件を同じにするために、全部アイパッチって言って絆創膏のようなものを目にはって、その上にアイマスクをする、だから全部全盲と同じ。全く見えないという条件を同一にするんです。で、それが4人、プレーヤーとして走り回る。で、ゴールキーパーは健常者もしくは弱視でかまわない。5人で1チームを作りまして、サッカーの試合をするんです。
 で、見えないんじゃないのってこうおっしゃるかわかりませんが、ボールには鈴が入っておりまして、蹴るとカラカラカラっていう音がします。視覚障害者のサッカーは、20年前にすでにデッサンをしまして、中南米、それからヨーロッパに普及されて、韓国が5年ほど前に取り組んだということで、韓国ではもうすでに15チームあるというふうなものすごい勢いなんですね。発展しているときっていうのはみんな勢いよくやってますので、私はインタビューしたんですよ。「サッカーやっておもしろいですか。」そしたら、私はただ単におもしろいですかっていうふうにしてインタビューしたんですが、「エキサイティング!」っていう答えがかえってきたんですね。それがにこっとして、それでそんなにおもしろいものか、彼らはエキサイティングと感じて走ってるんだというふうに思って、日本へ帰ったら絶対やるぞって思って帰ってきたんです。
 それで、今から2年前に日本の大阪で立ち上げまして、日本視覚障害者サッカー、そして、去年サッカー協会というのを立ち上げたんです。ただし、練習はできますけれど、試合は全然できないものですから、試合相手を求めて韓国へ行くわけです。ですから、韓国へ行って試合をし、去年の5月には日韓定期戦のやりたいなあということがありまして、韓国へ出かけて試合をしました。そして、そのときは0−0で引き分け、PK戦で負けたっていうことがあるんですが、日本、ずいぶんうまくなったなあと思ったんです。今度は、おかえしに、去年の8月、9月に、日本に韓国、そしてベトナムにも普及し始めましたてので、日本から先生が出かけてベトナムで普及して、この選手を呼んで岡山、神戸で定期戦をやったんですね。日本が幸いにしまして、韓国とは0−0でPK戦で勝って、よっしゃーっていうようになりまして,勝ったわけです。たいへん日本も強いなあと思いながら、選手たちにインタビューしました。「どんなふうに思っている。」っていうふうに日本の選手たちにインタビューしました。そうしましたら、「ものすごくおもしろい。」って言うんですね。「どんなところがおもしろいんですか。」って聞きました。先ほども申しあげましたように、視覚障害者っていうのは、先ほどボランティアの方たちもお話しされました、いわゆる情報の不自由、情報がなかなか自由に手に入らないっていうこと、あるいは行動の不自由ということがあります。ほんとに町の中を歩くっていう行動は不自由です。ところが、このピッチ、グラウンドに立って走ると、誰も手引きしてくれませんよ、試合ですからね。でもピッチの中には自由があるっていうことを言うんです。ピッチの中に自由がある。我々のチームの選手には実を言いますと、重度でシドニーのパラリンピックで銅メダルをとってきた人、100メートル走で金メダルをとってきた人、それからタンデムという自転車で世界チャンピオン、パラリンピックが金メダル、今でも記録が破られていないという、身体能力が非常にすばらしい方たちがサッカーに参加してくださっているわけですけれども、「いずれも全部、伴走あるいは一緒にやってくれる人がいるじゃないか。ところがサッカーにはピッチに自由がる。」っていうふうに言われますね。つまりね、「どうやるのって。」いうふうに聞いてみたんですが、その防具の鈴の音、それから自分がディフェンスの時には後ろに自分のゴールキーパーの声、指導する声、それから今度は攻撃を仕掛けるときには、その相手のゴールキーパーの後ろに「コーヤー」って言って、声をかける、「ゴールはこちらだぞ。」って言う声をかける人がいるんですが、この3者の声を聞きながら、自分の位置をシミレーションしている、そしてグラウンドを走り回ります。こんな忙しいことを、どうでしょう、ちょっと無理ですか。(笑い)
 そして、一試合の中に、一試合25分、25分ですけれども、一試合やっていると数回、すぱっとゴールキーパーのところまであいていると見えるときがある。見えないんですよ、ほんとはアイマスクをしていますからね。でも、見えるときがあるっていう表現をしてくる。若者たちにとって、視覚障害者の若者たちにとって、今、エキサイティングなスポーツでお役に立つようになったなあというふうに私は感慨を持っているんですが、これが全国的に、まあ言えば普及していって、若い人たちの生き甲斐になり、そして、パラリンピックへあるいはアジア大会へとつながっていけばいいなあという形でお手伝いをしているわけですけれども、私はほんとに視覚障害者になって、こんなにいろいろな人たちにお目にかかることができて、私自身は会長をやってくれとかいうふうに言われて、「はい。」って言って、今はサッカーではこういう具合にいそいそと出かけていくわけですけれども、そんなふうに何かのお役立つことができて、私侍自身の生き甲斐を求めていたんだな、あるいはお役立つことによって生かされているんだなというふうな思いを最近はつくづくとしています。
 先ほどのお話しで、たとえば山登りの会があったり、あるいは雨のときは本を読んでくださいというふうなことがあったりというお話しをなさってくださいましたけれども、ここで、この会にいらっしゃる方たちが、自分は何を求めてるんだろうかと、何をしたいんだろうかというふうなことを見つけていってくださればうれしいなあというふうに思っています。
ツアーコンダクターを長年やっていたときに、たとえばカナディアンロッキーという山へ行ったことがあります。行けども行けども行けども、両サイドに1000メーター、2000メーターの山々山が連なり、そして氷河が見られる、そしていろいろな色の湖が次々と展開してきて、ときには野生の動物が出現してくれる。すばらしい、カナディアンロッキーに行ったことがあります。ところが1日走っていてもそういうふうな景色なんですね。そうしますと、2日目に、せっかくカナディアンロッキーにきているのに、「釜本さん、毎日山ばっかりでつまらんわあ」というふうなことをおっしゃった方がありました。「あっ、この方はツアーを選ぶのを間違えたな。自分は山を求めて来たんじゃなかったんだね。」あるいはヨーロッパへ行ったら、毎日毎日毎日、必ずどこかで教会へ行くんですけれども、ときに「もう釜本さん、もう教会はええわ」というふうな声も何回か聞かれたことがありました。やっぱり、求めるものっていうのをはっきりと知らなければミスマッチが起こってくる。そして、なんだか旅がつまらなかったりすることもある、JRPSも同じじゃないかなあ、サッカーもそうだし、JBOSもそうだし、と思うんですけれども、やっぱり、視覚障害者の方が、今、私は何をしたら一番おもしろいだろうと思うかっていうことを早く見つけられれば、その方がそれにまっしぐらに邁進していって、あるいはJRPSの中でその夢を実現してくださって、「みなさん、こういうことを私はやりたいんです。一緒にやりませんか。」っていうふう呼びかけてくだされば、仲間が集まってくるというふうな体制であってほしいなあというふうに思っているんですけれども、それはボランティアの方たちはいくらでも支援してくださるだろうというふうに思っていります。ぜひぜひ、求めてください。私は何かの役に立てて、私を生かしてください。どうぞよろしくお願いします。今日はありがとうございました。(会場、盛大な拍手)

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