会報誌ビッグスワン第65号より<巻頭言>

自分に起きる問題はたいていの場合なんとかなる

山陰網膜色素変性症協会 会長 矢野健

花木が香り、若葉が目にしみる季節となりました。あとしばらくは春を満喫したいものです。

さて、今回は、『方丈記』の作者「鴨長明が伝えたかったこととは?」というテーマでお話をします。

『方丈記』は鎌倉時代に書かれた随筆で、『枕草子』『徒然草』と並び、日本三大随筆のひとつに数えられていることは、皆様もよくご存じのことと思います。作者の鴨長明(かものちょうめい)は、とても不運な人生を辿った人でした。父は『下鴨神社(しもがもじんじゃ)』・賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)の神官を務めていた鴨長継(かものながつぐ)で、幼少期は恵まれていましたが、有力な後ろ盾となる父が早くに亡くなり、鴨長明自身は神官の職を得ることができませんでした。和歌の名人であった鴨長明は、その後、歌人として何とか生計を立てていきますが、生活は決して楽なものではなかったようです。

1204年、鴨長明が50歳頃の年に、『下鴨神社』の摂社(本社に付属する神社)である『河合社』の禰宜(ねぎ)・神職の位。神主のひとつ下の役に欠員が生じます。『下鴨神社』の神職に就くためには、まず『河合社』の禰宜を務めるのが通例であったため、かねてよりの念願を叶えようと、長明は朝廷に働きかけます。しかし、後鳥羽院(ごとばいん)の推挙があったにもかかわらず、当時『下鴨神社』の禰宜であった鴨祐兼(かものゆうけん)から妨害を受け、結局長年の夢が叶うことはなかったのです。  大変な衝撃を受けた鴨長明は、これをきっかけに出家し、各地を転々とした後、京都の日野という場所に小さな庵を建てます。庵の広さが方丈(1丈・約3メートル)四方であったことから、そこで書き上げた随筆を『方丈記』と名付けました。

この頃、火災や地震、飢饉などの大きな災厄が相次ぎ、また自身のさまざまな苦難の経験から、長明は『無常』という境地に辿りつきます。歌人であり、琴や琵琶の名手でもあった長明は、その芸術的感性によって、無常の思想を『方丈記』という格調高い文章にまとめ上げたのです。

さて、『方丈記』に学ぶ「いかに生きるか」という人生哲学は?

仏教の根本思想である無常観とは、「変わらないように見えてもすべては常に変化していて、やがて滅んでいく」という思想です。『方丈記』には、この無常観が徹底して貫かれています。それがよく表れている冒頭の一節をご紹介しましょう。

原文:ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

訳:川の流れは絶えることはなく、それでいてそこを流れる水は、同じもとの水ではない。川のよどみに浮かぶ水の泡は、一方では消え、また一方ではできて、そのまま長くとどまっている例はない。世の中に生きている人とその人たちの住処もまた、ちょうどこの川の流れや水の泡のようなものである。

人やその人たちが住んでいる場所を川の流れや水の泡に例えた美しい文章からは、長明の芸術的感性の高さがうかがえます。しかし、それ以前に、どこかはかない印象を与えるのは、やはり長明の抱える無常観が表れているからでしょう。さらに、長明の「心の揺れ」を読み取ることもできます。長明自身、自らを苦しむ無常からの解放を願って、隠居する道を選びました。方丈の小さな庵での生活の中で一旦は安らぎを得られたものの、俗世間と離れた現在の生活をしだいに楽しく感じている自分がいると語っています。そして、末尾は、草庵での暮らしに執着に近い愛着を抱いている自分は、仏教的な往生からは程遠いものではないだろうかと、自身のあり方を問うかたちで結んでいます。

長明は『方丈記』の中で、「人生とは何か」「生きる意味とは何か」を自分自身だけでなく、本を手にした私たちに対しても、同じ問いを投げかけています。

死というものがそれほど切実ではない現代の私たちは、それゆえに「いかに生きるか」ということを考える機会も少なくなっています。人間は、時代の流れや大きな自然の力に翻弄される、ちっぽけな生き物に過ぎません。その中で、どのようにこの世に生きた証を残していけばよいのか、一度じっくりと自分の人生を見つめ直してみましょう。

長明は、人生を川の水の例えとしましたが、風、空気、時間でも同じように考えることができます。要するに「本日、只今」の一瞬を大事に考えることができるかです。一番若い「今」を大事にしましょう!

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