目の病気が発覚してから治療院開業まで

徳 美徳

わたしの目の病気は、網膜色素変性症です。この病気が発覚したのは、人間ドックの眼底写真でした。鳥取大学医学部付属病院の眼科で精密検査を受信し医師から「あなたの目の病気は網膜色素変性症です。」と宣告を受けました。「えっ、それって何?」、それもそのはず、その頃は、不自由もなく、普通に生活していたからです。

この病気について情報を集めると、難病であり、治る見込みのない進行性の病気だとわかりました。どういうふうに進行するのか眼科の先生に聞くと、人それぞれで、個人差があると言われました。全盲になるのは、1年先か、2年先か、それとももっと先なのか。ショックでこれから先の人生どう生きて行けばいいのか、落込みました、泣きました、涙が止まりませんでした。

まだ、仕事はできていましたので、病気のことは考えないように生活していましたが、頭の隅には、進行性という3文字が、常にありました。この病気にかかってしまった以上、進行を遅らせること以外に方法がないので、自分なりに調べましたが、確実な方法はありませんでした。 朝、目覚めると見えなくなっているかと不安で、夜も眠れませんでした。

その後、徐々に進行しているのを自覚しはじめましたので、精密検査を受けると、網膜色素変性症以外に、白内障、緑内障も発病し、視力障がい、色覚異常があることが発覚しました。暗いところは見えない、明るいとまぶしい、色の判別がつかない、視野も大部分がかけてきました。仕事が、できなくなりました。これからの人生設計が立たなくなりました。

途方に暮れている時に網膜色素変性症協会山陰支部(当時)というこの病気の患者会がある事を知り、積極的に参加して、たくさんの情報をいただきました。会の皆様は、明るく、元気で、情報交換など助け合い、協力されていました。

精神的に落ち込んでいたのですが、会の皆様の姿にふれあい、生きる意欲がわいてきました。JRPS山陰の皆様の姿がまさにわたしの座右の銘「相身互い」と合致していました。

これから先、どう生活して行くか、わたしの生き方、行き方が見つかりませんでした。何か仕事をして生活費を稼がないといけません。

盲学校で、知識や技術を学び仕事として生活して行ければいいなあという希望が湧いてきました。いつもお世話になっている奥美和子さんに盲学校を紹介していただきました。

オープンスクールに参加させていただきましたが、入学できても、勉強、実技、歳も歳だし、目の方もかなり進行しているので、はたしてわたしにやって行けるのだろうかと悩みに悩みましたが、盲学校で学び、生きて行く道を選びました。

文房具を買い揃えることから始まりましたが、学生時代使っていた物と同じような筆記用具では、見えづらいので、太いボールペン、4Bシャープペンシル、サインペンなど色々ためしました、色も色々ためしました。

勉強については、覚えが悪いし、覚えても忘れる、覚えてもすぐ忘れる。自分自身に腹が立つやら、情けないやら何度も挫けそうになりました。毎朝泣きながら登校していました。

先生の励ましのおことばに、100回忘れて、200回覚えろと言って下さいました。覚えの悪い者、覚えてもすぐ忘れる者のことを、200回組と名が付きました。それでも、3年間精一杯頑張りました。

勉強以外では学園祭、体育祭と昔に帰って学生同志で出し物の練習など満喫しました。臨床実習では、患者様が「わたしの手を持って帰りたい」とか「ゴッド・ハンド」とか、「卒業するなら手を学校に置いて卒業して」など、冗談を言ってくださるまで親しくしていただけたことがうれしかったです。最後の患者様が、「2年間ありがとう」とわたしの手を取り、両手で、握手してくださったことが、わたしの一生の宝になりました。

盲学校で、知識、技術、患者様との接し方など、他にもたくさんのことを学びました。3年間、苦しくもあり、辛くもあり、楽しくもありました。やっとの思いで卒業することができました。

平成29年春、5月5日、(子どもの日)に、「ゴッド・ハンド治療院」を開業しました。

屋号を「ゴッド・ハンド治療院」にした理由は、盲学校での患者様数人が、徳さんの手は、大きくて、分厚くて、指が太いので、体への当たりが良く、技術的テクニックもあり、あん摩が始まると、眠けをもよおし、こりがスーと消えるので、「ゴッド・ハンド」だと言って下さったので、「ゴッド・ハンド」(神の手)になれるよう努力するために、この名称に最終決定しました。

JRPS山陰の皆様方「ゴッド・ハンド治療院」を末永く、宜しくお願い致します。

合掌

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