あぁるぴぃ広島 13号


■小畑昌弘さんの講演内容■

  小畑 昌弘(こばたけ まさひろ)
  メールアドレス kobatakem@do3.enjoy.ne.jp

 私なりの体験をもとに、話をさせてもらいました。
 しかしなかなかうまく話すことができず、人前での話すことの難しさを、改めて実 感いたしました。 それでも、支部長をはじめ、役員の方々、保健所の人たち、ボラ ンティアさんのおかげにより、メール友達やまた、思いがけない人達など、多くの人 に来てもらえ、とてもうれしく思いました。
 以下は当日の講演内容の原稿です。


 みなさんこんにちは。
 今日は JRPS 網膜色素変性症 患者と家族の会にお招きをいただきありがと うございます。とても講師と言うような者ではありませんが、色変歴40年の私が、 歩いてきた道を話すことで、少しでも参考にしていただけたらと思います。

@見えていた頃の自分

 私は生まれも育ちも広の横路と言うところで、過ごし、郷里をはなれたのは神戸視 力センターに入所した3年間だけで、現在も地元で過ごしているというとても恵まれ た男です。少年時代、目の方は全く異常はなく、中学になって少し近視があったぐら いでした。高校大学と、めがねはかけていましたが、夜見えないと言うことはありま せんでした。網膜色素変性症と診断されたときのこと 地元の大学を卒業後 地元の 鉄工会社に就職しました。その頃から目の前にひまわりのようなものがちらちらまぶ しく見えるので、溶接の火花を見るからかなと思っていましたが、市内の眼科病院に 診てもらいました。そこで初めて網膜色素変性症と診断され、現代の医学では治療法 がなく、40から50歳ぐらいで失明するでしょうと言うことでした。そのとき、私 は「そんな病気は聞いたことないし、そんなことあるのかいな」とあまりショックは 感じませんでしたが、その後いろんな病院の眼科を受診しましたが、どこも同じ結果 でした。眼が痛いわけでもなかったけど、その後だんだん夜盲症がひどくなり、視野 が狭くなってきて、夜や暗い所では溝に落ちたり人や木などにぶつかったりしまし た。
 国立呉病院ではアダブチノールと言う薬をもらって飲んでいましたが、胃が悪くな るだけでした。また尾底骨の周辺に網膜の血管を収縮させている細胞があるので、そ れを切除するといいかも知れないといわれ、手術したこともありました。尾底骨を切 除して、目がなおるだなんて…と思いましたが他に方法がないので、やっては見まし たが、何の変化もありませんでした。昔は総頸動脈の所に、牛の黄体ホルモンを埋め 込むという怖い手術もやったそうです。
 それから勤めていた会社をやめ、父がやっていた建築業の仕事に変わりました。そ の頃は景気も良く、仕事も多く、体も元気でがんばりました。そして28歳で結婚 し、ふたりの子供に恵まれました。
 しかし30歳頃になると夜盲症も視野狭窄もひどくなり、交通事故をやったり何度 も溝に落ちたりしました。見えているようで見えていない、色変と言う病気を周囲の 人達にも理解してもらえず、また夫婦の信頼感も次第に薄くなっていきました。また 仕事の面でも押し込みや天井裏などの暗いところでの作業が困難となりました。  また夕方暗くなっての後始末などのとき足場にぶっつかったり、材料や道具につま ずいて転んだりするので、いつも父親に片づけてもらっていました。若い自分がやら ずに、老いた父にさせたことが、仕方がないとは言え、とても情けなくつらい思いで した。
そんなことで38歳の時、父親が「このまま仕事を続けては、足場から落ちた り手や指を切ったりしたら大変だ。それに自分ももう年だ」と転職を勧めました。転 職については以前から考えていましたが、視覚障害者の職業としての、鍼灸マッサー ジ師になることには抵抗はありませんでした。それより留守になった家庭のこと、長 年やってきた建築の技術、機械や道具、信頼を得てきたお得意様のこと…。すべて捨 てて全く違った世界への転向への不安感の法が強く、決心するまで、二、三年かかっ たように思います。

A新しい道への再出発 国立神戸視力センターへの入所

 中途失明者更正施設は県内では三原の聖光学園がありましたが、言えを出て、寮生 活をするなら、遠くても同じだし、むしろ離れた所の方がいいと思いました。そんな ことで、昭和58年4月 17年やってきた建築の仕事を捨て、 人生の再出発をめ ざして、国立神戸視力センターに入所しました。 40歳の春でした。
 まず入所して驚いたことは、施設が広く立派なこと、入所生には会社員 警察官  看護婦さん 教員など、いろんな人達がいたこと。また高校を出てすぐの人から、停 年を過ぎた人など、いろんな世代の人がいたこと。指導する先生は、みんなやさし く、全盲の先生が多かったこと。教科書は、ほとんど図や絵がなく大きな文字で、文 章による表現だったことなどです。
 寮生活は3人一部屋で、全盲弱視者と一緒にしてあり、掃除や洗濯 物干しなど、 食事以外はすべて自分でやることになっていました。私はこの時の生活が自分の自立 心を養い、また全盲者の話を聞いたり、動きを見ていたおかげで、今の自分の生活に おおいに役に立ったと思います。
 困ったことでは、建築は専門でも、難解な医学用語を覚えるのに苦労しました。そ れに試験の答案は点字で行われるため、よく失敗しました。
 楽しかったことはいろんなサークル活動があって、民謡 尺八 文芸 ハイキング などいろんなサークルに参加し、多くの友達ができたこと。カラオケの好きな解剖学 の先生がいて、よく先生の家に歌いに行ったことは最も楽しいおもいでです。  いろんな思いを胸に無事3年の修業年限を終え、卒業しましたが、何と行っても良 かったことは、スミ字で勉強できたことだと思いました。見えない人はテープか点字 でしたが、視野が狭いけど、すみ字がよめたので、勉強も寮生活もずいぶん楽だった と思いました。それに良きともや先生に恵まれたことです。
 卒業後の進路については病院や治療院への就職 開業とありましたが、とても即開 業には自信がなく、ずいぶん迷いました。進路指導の先生から、「自信があってやる 者はいないだろう。失敗も成功もすべて自分の自信につながるのだし、君の年齢から も即開業が最適だと思う」と励まされました。

B卒業してからのこと

 昭和61年春 無事免許を取得し、呉に帰り、期待と不安の中開業準備にとりかか りました。そんな中、待っていたのは離婚と妹の死と言う現実でした。
 一番協力してもらえると思った妻に出て行かれ、妹の死によって両親は落ち込み、 私自身大きく出鼻をくじかれた感じでした。
そんな中、看板一つとベッド一つ買い、 どうにか自宅開業にこぎつけましたが、お客も初めからそんなにあるはずもなく、私 自身少々気持ちがぐらつきました。 どこかよその治療院へ雇ってもらおうかとも考 えましたが「せっかくあげた看板を降ろしてなるものか!この仕事だけが生きる道だ !」と自分に言い聞かせながら、来てくれた人に、喜んでもらえるように、また来て もらえるように、誠意を持って一生懸命治療しました。免許こそ取ったものの経験も 浅く技術も未熟で、いろんな困難にあたりましたが、先輩や先生そして周囲の人たち の指導や協力をえながら、ひとつひとつ乗り越えて来たように思います。  1年後には仕事も順調にありはじめ、離婚問題も決着し、その夏には、私を理解し てくれる人が現れ、再婚することができ、本当に再出発と言うことになりました。時 代は平成に移り、仕事も生活も順調に動きはじめました。視力の方は平成2年頃から 急に落ち始め、治療室のカレンダーの大きな字が見えなくなりはじめ、スミ字で書い ていた日誌が読みにくくなり 点字に切り替えたりして、失明していくのが自分でわ かるようナ時期がありました。それでも仕事を休んだりやめたりすれば、少しでも長 く見えるかも…と思うことがありましたが、そんな保証はないし、眼下にも行かず、 がんばって仕事を続けました。

C見えなくなってからの人生

 平成5年頃になると、視力は空と山のきわがわかるぐらいで人の顔などわからなく なりました。そしてほとんど自分で外に出なくなり暇なときはベッドに横になって、 テープなどを聴いたりして、体を動かすことが少なくなりました。そのためいつしか 高血圧や不眠になやまされるようになり、また生活の面でもすぐに人に頼ったりして 自分で行動しない消極的人間になっていたと思います。この頃から仕事だけの人生も いいけど、もっと幅のある人生になりたいと常々考えるようになりました。目が見え なくてももっと楽しいことがあるに違いない。もっといろんなことをしてみたい…と 思うようになりました。それにはどうしたらいいか?…まず自由に外に出るようにで きたらいいのでは…。外に出ればいろんな人に会えるし、いろんな情報も入るだろ う…そうすれば今までとはまた別の世界があるかも知れない。そうだ!盲導犬を持っ てみよう!今ならまだ足にも自信がある。

D盲導犬レックスとの出会い

 平成7年9月4日 関西盲導犬協会へ共同訓練を受けるため家内と一緒に行きまし た。そこではじめてレックスと出会ったわけですが、とてもおとなしく可愛い感じで した。名前はレックスといいます。犬種はゴールデンレドリバー種で2歳になる女の 子ですと、所長さんから紹介がありました。以来7年間私のパートナーとして、苦楽 をともにしてくれたわけですが、平成14年9月 病気引退を機にその記録を何とか 形にしたいと考え、「盲導犬 レックスとともに」と言う本を自費出版いたしまし た。ご希望される方は、でひご一読下さい。

盲導犬をもってよかったと思われること

1 いつでも一人で外出できる (買い物散髪 歯医者さん 往診治療など) 
2 いろんな人とのであいがある(ボランティアさん 小学生 使用者交流会など)
3 積極的社会参加 (講演会 陶芸教室  旅行など」
4 パートナーとしてのいやしなど


こまったこと
1 盲導犬拒否に会うことがある (飲食店 ホテル タクシーなど)
2 排泄など管理上の世話がいる
3 病気フードなど経済的負担

 以上盲導犬を持ったことの特質について簡単に述べましたが、私の見えなくなって からの人生に大きな役割があったように思われます。
 見えていたときは何とも思わなかったけど、失明して、再び一人で風を切手歩ける 喜び。そしていろんな出会いの中で、子供達との楽しい会話、ボランティアさん達な ど、多くの友達ができたこと。
 また盲導犬の啓発活動を通じ、小学校の講演会などへの積極的社会参加ができたこ と。積極性は生活面にも及び、パソコン メール インターネットにも挑戦するな ど、いろんな面で意欲的になれたと思います。
 以上、盲導犬についての感想を簡単に述べさせていただきましたが、昨年12月3 0日引退したレックスが死んだと言う知らせが届きました。引退後1年3ヶ月でし た。覚悟はしていましたが、とても悲しく残念な思いです。でも、これからは、2頭 目「アイアン」とともにがんばりたいと思います。


E三味線について

 私は35歳頃、民謡がはやった時期があり、みんようを習いはじめました。そのと き、三味線で伴奏していた女の先生がとても上手にひくので、いつも感心していまし た。そしていつしか自分もあのように三味線がひけたらいいなと思うようになりまし た。
 「先生 私でも三味線がひけるようになりませんですかね?」と尋ねました。先生 は「教えてあげるからいらっしゃい」と快く言われました。先生にはとても熱心に、 時にはよるおそくまで教えてもらいました。
 おかげで2年半後、神戸視力センターに行く頃にはかなりひけるようになりまし た。先生は特定の流派には属さず、津軽三味線なども手がけ、いろんな手を駆使され ておられました。その影響で私も津軽三味線の魅力にひかれていきました。私は見え なくなるから三味線をはじめたわけではありません。民謡が好きで、三味線が好き だったから続けられたのだと思います。  以来三味線歴25年 昨年5月には、毎年弘前市で行われる津軽三味線全国大会に 出場してきました。今では小学校や老人介護施設などにも演奏に出かけています。  鍼灸業は見えなくなるために始めましたが、良い職業に恵まれたと思います。
 盲導犬は見えなくなってから手にし、再び一人で歩けると言う喜びを得ました。
 三味線は見えていた頃始めましたが見えなくなっても続けられ、人生を豊かにして くれたと思います。
 こうして見えていた人生と見えなくなってからの二つの人生を眺めて見ると、ある 意味では、見えなくなってからの方が、積極的で有意義なものになったのではと思い ます。「盲人は不自由なれど不幸にあらず」と偉大な先輩の言葉がありますが、今の 私はまさにそのように実感しています。


Fこれからのこと

 私は今年61歳になります。健康が許す限り、今の生活を続けて行きたいと思いま す。そして卒寿と米寿の両親の介護を、できるかぎり自分でやってみたいと思ってい ます。また自分の経験をもとに、失明の不安に悩む人たちの手助けを積極的にやって 行きたいと思います。


G網膜色素変性症 患者と家族のみなさんへ

 言葉足らずの話で参考になるかどうかわかりませんが、少しでも見えている人は目 を大切にしてください。もしか失明されても、明るくはつらつと生きておられる人は たくさんおられます。一人で悩まないで、いろんな人の意見を聞きながら、勇気と希 望を持って明るくやって行こうではありませんか。家族の方や周囲の人たちもこの病 気のことを正しく理解し、本人が自立できるよう協力してあげましょう。  つたない話をお許し下さい。
   平成16年2月


(参考)「レックスとともに」(B6変形判、ページ)
 希望者には、1600円(送料込み)で販売。



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